以人為何物(人を以て何物と為すや)(「幽夢影」)
涼しくなってきたので、人間はともかくムシが活動しやすくなってきました。この時期、水たまりのあたりは蚊でたいへんです。

おれはちっぽけなやつらのように活動的ではない。
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清のはじめごろのことですが、
蠅集人面、蚊嘬人膚。
蠅は人面に集まり、蚊は人の膚(はだ)を嘬(か)む。
ハエは人の顔に集(たか)ってくるし、カは人の皮膚をかじってきやがるんじゃ。
不知以人為何物。
知らず、人を以て何物と為すや。
いったい、人間さまを何だと思っているんじゃろう。
と、ここまでを心斎先生・張潮が書きました。答えは友人たちに書いてもらいます。こういう他者からの共感こそが道徳を作っているのでしょう。
陳康範:応是頭陀転世、意中但求布施也。
まさにこれ頭陀(ずだ)の転世なり、意中ただ布施を求むるのみ。
「頭陀」(ずだ)はサンスクリットのドゥタンガの音訳で、意訳すれば「行脚」(あんぎゃ)です。苦悩を洗い流すための放浪、乞食、またそれを行う僧侶のこと。ここは「僧侶」の意です。
これこそ乞食坊主が転生した姿ですじゃ。心の中にはただ寄進を寄こせ、という気持ちしかないんじゃろう。
次の菌人和尚への挨拶にもなっているのでしょう。
釈菌人:不堪道破。
道破に堪えず。
「道破」は「言い尽くす」ことです。
(ハエとカの所行はなかなか深いところがあって、行脚と同じく)言い尽くすことはできんぞ。
張竹坡:此南華精髄也。
これ、南華の精髄なり。
これ、「南華経」の一番大事なところでしょう。
「南華経」は「荘子」のことです。唐の玄宗皇帝が荘周に「南華真人」の号を贈ったことから、荘周の書いた「荘子」は「南華真経」と呼ばれるようになったんじゃ。
無為自然で、ハエや蚊に集られても「うへへ」と言ってられるようになれば、荘子の極意をつかんだと言われましょう。
尤悔庵:正以人之血肉唯堪供蠅蚊咀嚼耳。以我視之、人也。自蠅蚊視之、何異腥羶臭腐乎。
まさに人の血肉を以て、ただ蠅・蚊の咀嚼に供うるに堪うるのみ。我を以てこれを視れば人なり。蠅・蚊よりこれを視れば、何ぞ腥羶(せいせん)臭腐に異ならん。
人間の血と肉ぐらいしか、ハエやカの食べ物にお供えすることができるものがないではないか。わしらから見れば人間でも、ハエやカから見れば、なまぐさい羊肉やすごい臭いの腐り肉でしかないのだから。
おまえさんは、腐った肉なんじゃ!
「人間をハエやカのお供え物にするなんてもったいないですぞ」
陳雲士:集人面者、非蠅而蠅。嘬人膚者、非蚊而蚊。明知其為人也、而集之、嘬之、更不知其以人為何物。
人面に集る者は、蠅に非ざるも蠅なり。人の膚を嘬む者は、蚊に非ざるも蚊なり。明らかにその人たるを知るも、これに集り、これを嘬む、更に知らず、その人を以て何物と為すかを。
人間の顔に集ってくるのは、ハエでなくてもハエ的なものでしょう。人間の皮膚を噛んで血を吸うなら、カでなくてもカ的なものでしょう。さて、明らかに人間であるとわかる姿をしていても、人の顔に集り、人の血を吸うものがいたら、もっと分からなくなる。この人のこと、人間であるのに何だといえばいいのでしょうか。
「人を以て何物と為す」というコトバの意味を取り換えています。巧いですね。
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清・張潮「幽夢影」第136則。人を批判する前に、わたしがそうでないか、と反省しなければ。うーん。うーん。
(ぽくぽくぽくぽく、ちーん。)結論。〇〇大臣ほどにはハエでもカでもないと思います。
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