求之不獲(これを求むるも獲られず)(「粤剣編」)
何かを求めてほっつき歩いているのかも知れませんよ。

そういえば今日は「那覇の日」だぞ。
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7月5日に登場した跋多羅法師の物語です。
飛来寺にやってきた跋多羅法師、
慮寺無泉。
寺に泉無きを慮る。
寺に泉井が無いのを心配した。
求之不獲、忽一老人指石。
これを求むるも獲ざるに、忽ち一老人、石を指さす。
泉源が無いものかと探してみたが、見つからない。そんな時、突然、老人が現れて、ある石を指さした。
老人は言った、
但定其心、何患無泉。
ただその心を定むれば、何ぞ泉無きを患えんや。
「あれが必要だ、あれも欲しい、というその心を安定させれば、泉が無いといって何が困ることがありましょうかのう」
そう言うと、老人はかき消すようにいなくなった。
「なるほど、泉が無くとも水は麓から汲んでくればいいのじゃ。それもまた修行であろう」
と合点が行って、探すのを止めた。
久之、石間果汨汨流泉出。
これを久しくして、石間に果たして汨汨(べきべき)として流泉出でたり。
「汨」(べき)は屈原が沈んだ「汨羅の淵」で有名ですが、沈むの意(「ぼとん」?)、だとか水の音(?)だとか通じた時の音(「ポン」ですかね)といった解があります(「康煕字典」による)。ただ、もともと右側の「日」を「曰」にした「いつ」と読む字があり、「水流」のことだそうで、これと「汨」が早いうちに混同されてしまったとも言われ、上の「べきべき」もほんとは「いついつ」と読んで、水が湧いて溢れ出してくる「溢溢」の様子、なのかも知れません。
まあどちらでも大した問題ではありません。
しばらくしたら、老人(のまぼろし?集合的無意識?)が指さした石の間から、ごぼごぼと音がして、泉が流出してきた。
今寺僧引以為庖湢之用。
今、寺僧、引きて以て庖湢(ほうひょく)の用を為す。
現代(明代)まで、寺の僧侶たちはこの水を使って、料理や洗濯の作業をしているのである。
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明・王臨亨「粤剣編」巻一より。必要なものは探さなくても、少し不便なだけでおそらくどこにでもありますよ。春は枝頭にありて已に十分なのですじゃ。(一日中春を訪ねてほっつき歩いたが、帰ってきて家の梅の枝を見たら、春はその枝先にあって、もう十分すぎるほどだった。求めるものは身近にあるのである)
おそらく肝冷庵は何かを求めてさまよっているわけではないのでは。明日の報告を待ちたい。
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