余時為童(余、時に童たり)(「後山談叢」)
木曜日の夜に、高校の先輩との会合がありました。ほぼ五十年前、いまのような人間になる前に自分がどんな人間だったかを思い出して、この三日間、何かが抜けたようになってしまいました。体調までおかしくなってきたような気が。東京寒いし。

ニンゲンの子どもはストレスの対象だったにゃ。何してくるかわからんににゃ。
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宋の第四代・仁宗皇帝は、その在位四十年に及ぶ(1022~1063)が、その間、
辺奏不入御閤。
辺奏、御閤に入らず。
国境からの紛争の報せは一度も政務室に届いたことがなかった。
毎大事、賜宴二府、合議以聞。
大事あるごとに、二府に宴を賜い、合議して以て聞せしむ。
「二府」とは、宋代の中央官庁制度の根幹であり、東府といわれた中書門下(一般政務)と西府といわれた枢密院(軍事)の二つの意思決定機関を指します。この両府に権限を分散させて、それぞれが皇帝を支えるというのが本来のシステム構想なのですが、仁宗皇帝は、
大きな問題が起こると、二府合同の宴会を開催し、そこで合同して議論させて、結果を聞いた。
のです。権限分散なんていう臣下を信じないことをお嫌いになられた。たいへん温和で優柔にも見える人なのですが、平穏な時代にマッチして名君と讃えられました。
嘉祐八年(1063)四月、その仁宗が崩御した。
訃於契丹、所過聚哭。既訃、其主号慟執使者手。
契丹に訃するに、過ぐるところ聚まり哭す。既に訃すれば、その主号慟して使者の手を執れり。
契丹(遼帝国)に死亡の連絡をしたところ、使者が過ぎた町々では、ひとびとは集まって声を上げて泣いた。正式に訃報を届けると、契丹の君主は、大声を上げて泣き、使者の手を握りしめた。
遼の道宗皇帝(在位1055~1100)のはずです。ほんとにそんなことしたのかなあ。
契丹皇帝は使者の手を握り締めたまま、おっしゃったという。
四十二年不識兵矣。
四十二年、兵を識らざりき。
「四十二年。かの君とは、一度も軍事的な問題は起こらなかったのですぞ!」
と。
葬而来祭、以黄白羅為銭、他亦称是。
葬に来祭するに、黄白の羅を以て銭と為し、他(かれ)またこれを称せり。
仁宗の国葬の際に、契丹の使者は、黄色と白(黄金と銀になぞらえる)の薄絹であの世の銭を作って持ってきて、その時もまた平和な関係を保ったことを称賛していた。
国内においても、
仁宗既疾、京師小児会闕下、然首臂以祈福、日数百人、有司不能禁。将葬、無老幼男女、哭哀以過喪。
仁宗既に疾するに、京師の小児闕下に会し、然して首臂を以て祈福すること日に数百人にして、有司禁ずる能わず。まさに葬らんとするに、老幼男女無く、哭哀して以て喪に過ぎたり。
仁宗が病気だという情報が広がると、都・開封の子どもたちは宮門の前に集まり、土下座して皇帝のつつがなきを祈り、毎日数百人が集合して、役人たちが禁止しても止まなかったという。葬儀の時には、老いたるも幼なきも男も女も、みんな声を上げて泣いて、自分たちの親族の葬儀よりも哀切であった。
と記録されています。
余時為童、与同僚聚哭、不自知其哀也。
余時に童たりて、同僚と聚まり哭すも、自らその哀を知らざりき。
わたしはその時子どもで、友だちと集まってみんなで声を上げて泣いたのを覚えている。しかし、自分たちでは何を哀しんでいるのかよくわからなかった。
ことを思い出します。四十年前ぐらいかなあ・・・。
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宋・陳師道「後山談叢」巻三より。後山居士・陳師道は徽宗皇帝の崇寧元年(1102)に数え五十歳で亡くなっているので、仁宗の崩御は十一歳の時のことになりますね。
こんなふうにみんなと一緒に・・・という記憶が高校時代あんまり無いんです。中学校まではいいんですが。
こちらの逸話は、単に子どものころの思い出、というより、世界遺産に昇れたという歴史の証言では。確かにむかしはいろいろ大らかだったですよね。
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