4月25日 やっぱり東京に戻ると寒い

余時為童(余、時に童たり)(「後山談叢」)

木曜日の夜に、高校の先輩との会合がありました。ほぼ五十年前、いまのような人間になる前に自分がどんな人間だったかを思い出して、この三日間、何かが抜けたようになってしまいました。体調までおかしくなってきたような気が。東京寒いし。

ニンゲンの子どもはストレスの対象だったにゃ。何してくるかわからんににゃ。

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宋の第四代・仁宗皇帝は、その在位四十年に及ぶ(1022~1063)が、その間、

辺奏不入御閤。

毎大事、賜宴二府、合議以聞。

「二府」とは、宋代の中央官庁制度の根幹であり、東府といわれた中書門下(一般政務)と西府といわれた枢密院(軍事)の二つの意思決定機関を指します。この両府に権限を分散させて、それぞれが皇帝を支えるというのが本来のシステム構想なのですが、仁宗皇帝は、

のです。権限分散なんていう臣下を信じないことをお嫌いになられた。たいへん温和で優柔にも見える人なのですが、平穏な時代にマッチして名君と讃えられました。

嘉祐八年(1063)四月、その仁宗が崩御した。

訃於契丹、所過聚哭。既訃、其主号慟執使者手。

遼の道宗皇帝(在位1055~1100)のはずです。ほんとにそんなことしたのかなあ。
契丹皇帝は使者の手を握り締めたまま、おっしゃったという。

四十二年不識兵矣。

葬而来祭、以黄白羅為銭、他亦称是。

国内においても、

仁宗既疾、京師小児会闕下、然首臂以祈福、日数百人、有司不能禁。将葬、無老幼男女、哭哀以過喪。

と記録されています。

余時為童、与同僚聚哭、不自知其哀也。

ことを思い出します。四十年前ぐらいかなあ・・・。

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宋・陳師道「後山談叢」巻三より。後山居士・陳師道は徽宗皇帝の崇寧元年(1102)に数え五十歳で亡くなっているので、仁宗の崩御は十一歳の時のことになりますね。
こんなふうにみんなと一緒に・・・という記憶が高校時代あんまり無いんです。中学校まではいいんですが。

こちらの逸話は、単に子どものころの思い出、というより、世界遺産に昇れたという歴史の証言では。確かにむかしはいろいろ大らかだったですよね。

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