雞犬無余(雞犬も余す無し)(「後漢書」)
曹操さまの養父・曹嵩さまは、戦乱を避けるため、山東・琅邪の地に向かった・・・。

わしは芋粥を食べに福井県まで行ったんじゃ。食べ過ぎには気をつけねばなりません。
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時陶謙別将守陰平、士卒利嵩財宝、遂襲殺之。
時に陶謙別将、陰平を守るに、士卒、嵩の財宝を利として遂に襲いてこれを殺す。
この時、陶謙の配下の別動隊の部将が陰平の町に駐屯していたが、その下士官・兵士が、曹嵩の所持していた財宝に目がくらんで、とうとう曹嵩を襲撃して殺してしまったのである。
人の親を殺すと「不倶戴天」の敵になります。「倶に天を戴かない」関係というのは、町で見かけたら、家に武器を取りに帰ることも止めて、ただちに襲い掛かってカタキを討たなければならない存在とされます(「孟子」)。
「えらいことしてくれたわい」
と陶謙は、謝罪して許されることでもないので、いまさら部下を罰してもしようがない。そのうち、激怒した曹操さまが、後漢の初平四年(193)、彭城傅陽の町に攻めこんできた。陶謙は郯の町に退いて、ここを守ったが、
曹操攻之不能克、乃還。
曹操これを攻むるも克つ能わず、乃ち還る。
曹操はこの町を攻めたが、落とすことができず、河南・許州へ帰還した。
その途中、
過抜取慮、睢陵、夏丘、皆屠之。凡殺男女数十万人、雞犬無余。
過ぎるところ、取慮、睢陵、夏丘を抜き、みなこれを屠る。およそ殺すところ男女数十万人、雞犬も余す無かりき。
通過した取慮(しゅりょ)、睢陵(すいりょう)、夏丘(かきゅう)の三つの町は、すべて攻略し、住民はすべて虐殺した。男女合わせてなんと数十万人、ニワトリやイヌも一匹たりとも遺さなかった。
ネコも殺されたことでしょう。いたら。この時期、中国大陸まで来ていたかどうか。仏教も来てましたから来てたのではないか。おそらく船で。
泗水為之不流。
泗水これがために流れず。
泗水の川は、これらの死体のせいで流れなくなってしまった。
そのあと何か月も。
初三輔遭李隺乱、百姓流移依謙者、皆殲。
初め、三輔李隺の乱に遭い、百姓流移して謙に依する者、みな殲(ころ)さる。
長安近辺の三輔の地は、この少し前に董卓とその部将であった李隺(←ほんとは「人べん」がつきます)の起こした大混乱によってほとんど人が住めなくなっていた。その際、河南・山東に流浪して、陶謙の政権の下に逃げ込んでいた者も多かったが、かれらはここで、みんな殺されたわけである。
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「後漢書」巻六十三「陶謙列伝」より。何千年もかけてものすごい数の人間を殺しています。おかげで豊かな土壌ができた、というかなんといいますか。にせアンケートで引っ掛けるぐらいなんとも思わないことでしょう。
なお、後漢末の混乱でチャイナの人口は二千万人まで減ってしまったそうです。これなら勝てる?
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