西山日没(西山に日没す)(李賀「神絃曲」)
李白を「天才絶」(天の才能の他者と隔絶したもの)といい、白楽天を「人才絶」といいます。さて、この人は「〇才絶」と呼ばれたでしょうか。

冬になってしまいました。野外のドウブツは寒いのだ。タヌキの歌によれば、風もないのにぶらぶらするという。風があったら千切れる?
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九世紀のひとの詩です。日本だと「なりひら」とかそんなやつらが同時代です。
西山日没東山昏、旋風吹馬馬踏雲。
西山は日没して東山は昏(く)れ、旋風馬を吹き馬は雲を踏む。
西の山に太陽が沈み、東の山ももう暗がりに沈んだ。
つむじ風が起こって(紙の)馬を吹き、本物の馬になって雲を踏んで昇り降る。
この馬が、天上と地上を繋ぐ、という設定でしょう。もう幻想の世界に入っています。
画絃素管声浅繁、花裙萃蔡歩秋塵。
画絃、素管、声浅繁、花裙は萃蔡(すいさい)として秋塵に歩む。
模様を描いた琴、白木のままの笛が、静かに、また騒がしく、楽を奏で、
花模様のスカートのすそを「さわさわ」と引きずりながら、(女巫は)秋の細かな塵の中を歩いていく。
ヒミコみたいなすごいばばあを想像してください。若い楚々とした「巫女さん」ではありません。
晩春の夕暮れ、ばばあの女巫は森の中を、古い神殿に向かって歩いていく。手には(八墓村みたいな)燭を持ち口になにやら知れぬ呪文を唱えているに違いない。
ばばあが行くに従って、
桂葉刷風桂墜子、青狸哭血寒狐死。
桂の葉は風に刷せられ桂は子を墜とし、青狸(せいり)は哭血して寒狐は死す。
モクセイの葉が風にあられて、モクセイは実をはらはらと落とし、
青黒いタヌキは血を吐いて鳴き、寒さに震えていたキツネは死んでしまった。
「青」は白や赤以外のあらゆる色を指す、といわれます。青黒いとか灰色を考えていただければいいでしょう。
ばばあはついに古い神殿にたどりついた。
古壁彩虯金帖尾、雨工騎入秋潭水。
古壁には彩虯(きゅう)の金を尾に帖れるあり、雨工は騎して秋の潭水に入る。
女巫のかざす灯りの中、ぼんやりと古い壁に剥げ落ちた彩色の水龍(みづち)の絵が浮かび上がる。尾のところにだけ切れ切れに剥がれ残った金箔が、灯りの中でぎらぎらと輝く。
(別の壁の絵では)雨の神が馬に乗って、秋の淵の中に消えてゆこうとしている。
いずれも古い古い時代の、イケニエを捧げる邪神やイケニエとして沈められる飾り付けられた娘の姿を無意識の中に記憶して、描かれたものなのであろう。
女巫はそれらの前え何かを祈っていたが、やがて手に持った燭を吹き消した。その瞬間ーーー
百年老鴞成木魅、笑声碧火巣中起。
百年の老鴞(きょう)木魅と成り、笑声、碧火、巣中より起こる。
百年以上生きていたとおぼしき老いたフクロウが森の妖怪と化して、
けたたましい笑い声と、あおい炎がそやつの巣から飛び出してきた!
あとは知らん。
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唐・李賀「神絃曲」(神秘の琴の伴奏でうたう歌)(「李賀詩編」所収)。漢詩の持つ明白さ、健全さ、率直さがありません。なんだか気味の悪い詩ではありませんか。フランス象徴詩とそれに影響された日本象徴派という文学運動を経ている我々には
「ほう、それで?」
みたいな詩ですが、いかに「楚辞」が原型だとはいえ、こんな詩を読んだ唐の人たちはびっくりして、作者の李賀、字・長吉を「鬼才絶」(死霊の才能の超絶したる者)と呼んだ。ついでにいろいろ他の事情もあって、科挙試験を受ける権利を剥奪してしまった。しかし真似するやつも出たので、このような気味の悪い詩のスタイルを「長吉体」と呼びます。肝冷庵も若いコーガンの美少年のころにはあこがれた。二十代で死んでしまうし。なお、正統から少し外れた、すごい才能のひとのことを「鬼才」と呼ぶのは、この「鬼才絶」から採られたのである。
ネットでは、騒いでいるのは移民だ、という情報が多いです。それも眉唾だが、何が本当なのであろうか。いまなら「本当のことは無い」と言い切れるのですが、若いころはどこかに神秘的な「本当のことがある」と思っていたので長吉体にもあこがれたわけだ。
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