坐井釣魚(井に坐して魚を釣る)(「焚書」)
何がダメかよくわからないのですが、閉塞感が強まってまいりました。木枯しが吹いたという自然条件も影響しているかも知れません。破れていない服がないのは困った。もうダメだ。だが豪傑の士は服が破れていても「がっはっは、気にしなさんな」と言ったりしてダメにはなならないのであろう。

すいか男は転んだりすると頭が割れてしまう。常に覚悟とともに歩いているのである。豪傑の士というべきであろう。
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10月24日の続きです。でっかい魚のホラ話をしていました。
豪傑之士、亦若此焉爾矣。今若索豪士于郷人皆好之中、是猶釣魚于井也。胡可得也。則其人可謂智者歟。
豪傑の士は、またかくの如くなるのみ。今、もし豪士を郷人のみな好(よ)しとするの中に索(もと)むれば、これなお魚を井に釣るがごときなり。なんぞ得べけんや。すなわちその人、智者と謂うべけんや。
豪傑の士は、またこのどでかい魚と同じなんじゃ。例えば豪傑をそこらの村人がみんなまあまあだと思っているひとの中から探し出そうとするなら、それは井戸で魚を釣ろうとしているのと同じである。どでかい魚が何故釣れようか。そんなことをしているやつが、どうして知恵者と呼ばれようか。
豪傑之士、決非郷人之所好、而郷人之中亦決不生豪傑。
豪傑の士は、決して郷人の好しとするところに非ず、而して郷人の中にはまた決して豪傑を生ぜざるなり。
豪傑の士というのは、絶対に村人がまあまあと思っている中にいるはずがない。というより、村人の中には絶対に豪傑なんか出現するはずがないのじゃ。
古今賢聖皆豪傑為之、非豪傑而能為聖賢者、自古無之矣。
古今の賢聖はみな豪傑これと為る、豪傑に非ずして能く聖賢と為れる者は、いにしえよりこれ無し。
歴史上の賢者・聖人はみんな豪傑の士がなったのである。豪傑で無くて聖人賢者となった者は、古来よりいないのである。
今日夜汲汲、欲与天下之豪傑共為賢聖、而乃索豪傑于郷人、則非但失却豪傑、亦且失却賢聖之路矣。
今、日夜汲々として、天下の豪傑とともに賢聖たらんと欲して、すなわち豪傑を郷人に索むるは、すなわちただに豪傑を失却するのみに非ず、また且つ賢聖の路を失却するなり。
今、昼も夜も一生懸命になって、天下の豪傑たちとともに賢者・聖人になろうとしていながら、その豪傑をそこらの村人の中から探し出そうとするのは、つまり、ただ豪傑のみなさんを失ってしまうというだけでなく、賢者や聖人になろうという道さえも失ってしまうことになるのである。
所謂北轅而南其轍、亦又安可得也。吾見其人決非豪傑、亦決非有為聖賢之真志者。
いわゆる轅(ながえ)を北にしてその轍を南にせんとするも、またまたいずくんぞ得べけんや。吾、その人の決して豪傑に非ず、また決して聖賢たらんとするの真志を有する非ざるを見る。
こういうのは、まさに車の轅(引き棒。リヤカーの把手を思い出してください)を北に向けて、車輪を南に進めようということである(。目的と行動が全く適当でない)。どうして成功することができるだろう。わたしは、そんなことをする人は決して豪傑でない、と思うだけでなく、絶対にマジメに聖人賢者になろうとする志さえ持っていない、と考えるのである。
何也。若是真豪傑、決無有不識豪傑之人、若是真志要為聖賢、決無有不知賢聖之路者。尚安有坐井釣魚之理也。
何ぞや。もしこれ真豪傑ならば決して豪傑の人を識らざる有る無く、もしこれ真志に聖賢たらんと要(もと)むるならば、決して賢聖の路を知らざる有る無し。なお、いずくんぞ井に坐して魚を釣るの理有らんや。
どういうことか。もしもその人がまことの豪傑ならば、絶対に豪傑のひとを知らないわけがない。もしもその人がマジメに聖人賢者となろうとしているならば、絶対に賢者聖人になる道を知らないはずがない。
つまりは、井戸の側に座って大きな魚を釣り上げる、という理論があるはずがないのである。
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明・李卓吾「焚書」巻一「与焦弱侯」より。ちょっとしつこいかも。とにかく普通の人の中から豪傑の士を探してもムダ、のみならず、おまえを軽蔑する、ということです。こんな要らんこと言っているヒマがあったら女性で首長やってくれそうな豪傑探してきなされ、といわれるかも。
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