国滅家亡(国滅び家亡ぶ)(「墨余録」)
よく雨降るねみたいなことをひとり言で言っております。晴れて爽やか、よりは精神的にいいか、という気もしないではない。印旛沼見たいけど遠いので止めておきます。

こんなのに乗って、資本主義の支配する土地から自由に飛び去りたいものだ。ただし社会主義もいやです。
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宋の靖康元年(1126)冬十一月、
金人陥汴、虜帝北行、閲四十日、送入一官署。
金ひと汴(べん)を陥とし、帝を虜して北行し、四十日を閲して一官署に送入す。
靖康の変で金に連行された「帝」は二人います。即位したばかりの欽宗と、責任を逃れて南方に巡幸しようとしていた上皇・徽宗です。おそらくここので「帝」は、あとの話からみて徽宗帝(在位1100~26)の方がイメージされていると思われます。
金国のひとたちが汴(宋の首都・開封のことです)を陥落させ、宋の皇帝を捕虜にして北に連行した。帝は四十日を経て、ある建物に送り込まれた。
帝見署中先有一胡人、独立庭砌、若有所伺。
帝、署中に先に一胡人有りて、独り庭砌に立ち、伺うところ有るがごときを見たり。
宋帝は、その建物には自分より先に一人の北方民族らしい人がいて、ひとりで庭の石階のところに立って、何かを探り見ているらしいのを見た。
有指示帝者曰、此契丹主耶律延禧也。国滅而就俘於此。
帝に指示する者有りて曰く、これ契丹主・耶律延禧(やりつ・えんき)なり、国滅びてここに俘に就けり、と。
誰かが、宋帝に指をさして教えてくれた。「あれは契丹(遼)の君主であった耶律延禧じゃ。国が滅んでしまったので、ここで捕虜になっているんじゃよ」
と。
すなわち、遼の最後の皇帝・天祚帝(在位1101~1125)であった。
頃之、其人入謁帝。
頃之(しばらく)ありて、其の人入りて帝に謁す。
しばらくしてから、その人は建物に入ってきて、宋帝に面会した。
その人(天祚帝)は言った。
我契丹与大宋、南北二百余年、未嘗絶和好。一旦為奸臣所誤、倶致遭辱於是。我已被拘三年、而事尚未了。
我が契丹、大宋と南北二百余年、いまだかつて和好を絶せず。一旦、奸臣の誤まるところと為り、ともにここに遭辱を致す。われすでに拘さるること三年、しかして事なおいまだ了せざるなり。
「わが契丹国は、おたくの大宋国と、二百数十年にわたって、ずっと平和を保ってきたものでした。今回、悪い臣下に国政の方向を誤らせられ、ともに屈辱(捕虜になる)を受けてここにおるに至ったわけです。わたしはもうここに三年拘束されておるが、言われたことが終わらないでいるのです」
帝問、何事。
帝問う、何事ぞや。
宋帝は訊いた、「どういうことを言われているのですか」と。
天祚帝は答えて言った、
金主知我国蔵有百穴之珠、通香之木。必欲得而後釈。今国滅家亡、宝何従覓。行将老死於此矣。
金主、我が国の百穴の珠、通香の木を蔵有せるを知る。必ず得て後に釈せんと欲す。今国滅び家亡び、宝何によりて覓(もと)めんや。行くゆくまさにここに老死せん。
「金の君主どのは、我が契丹国が百穴の珠と通香の木という宝物(昨日を参照のこと)を保有していたことを知り、必ずそれを入手して、それからわたしを解放しようと考えておるのです。国は滅び、一族も散じてしまった。いったいどうやってその宝物を探し求めればいいのやら。この先、この地で老いて死んでいくしかありますまい」
此何処。
これ何処なるか。
「ところで、ここは一体どこなんですか?」
此地名平州、去燕京尚有七百余里也。
この地、平州と名づけ、燕京を去ることなお七百余里なり。
「ここは平州と呼ばれる土地です。燕京(現在の北京)から、さらに400キロぐらい離れたところですな」
「なんと」
以上。これは「南渡録」に書いてあることである。(わたしが勝手に考えたのではありません)
雨蒼氏曰、耶律氏実非所宝、至為亡国子孫之累。不識宋帝聞之、亦念及宣和花石綱否。
雨蒼氏曰く、耶律氏実に宝とするところに非ず、至りては亡国の子孫の累と為る。識らず宋帝これを聞きて、また宣和の花石綱に念じ及ぶや否やを。
雨蒼先生(著者の毛祥麟の自称)が申し上げますに、契丹の帝室・耶律家に伝わった二つの宝物は、実際には宝とするようなものではなかったのだ。最後は国を滅ぼした子孫の困りごとの種にまでなってしまったのである。さて、これを聞いた宋(徽宗)帝は、自分が宣和年間(1119~25)に、全国から目ぼしい宝物を献上させ、名木や名石まで船を綱で引いてまでした運ばせて、人民たちの怨嗟の的になった「花石綱」のことを思い出したであろうか、それさえ思い出せない愚物であったろうか。
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清・毛祥麟「墨余録」巻七より。すばらしい宝物を持ちながら国家を滅ぼしてしまったとは、資本主義の精神を持たない昔のひとは情けない。現代であればすぐれた経済システムによってがっぽがっぽ儲けて幸福をもたらしていたであろうに。
ちなみに、天祚帝と徽宗帝、ほぼ同じ年に即位し、どちらも政務を怠り国家を滅ぼしてしまったよく似た身の上ですが、天祚帝は長白山、徽宗帝は黒龍江に送られていますので、一緒ところにはいなかったと思います。「南渡録」は明末の李清が南明政権の一部の顛末を記録したもので、もしそれに書いてあってもあんまり本当のことではないような気がします。だいたい、こんな宝物、物理的にあるはずないし、どうやら資本主義はもう希望も失くしたようです。
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