託形酔亡(形を酔亡に託す)(「真誥」)
やる気ないし夏バテも出てきたので出勤も難しいし起きていることはもっと難しいのです。

本日はゲシゲシじゃ。
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梁の時代の霊媒のひとがいうには、
龍伯高者後漢時人。漢伏波将軍馬援戒其兄子、称此人之佳可法。即其人也。
龍伯高なる者は後漢の時に人なり。漢の伏波将軍・馬援、その兄の子を戒めて、「この人の佳と称するを法とすべし」と。即ちその人なり。
龍伯高という人は、今(六世紀、梁の時代)から500年ぐらい前の後漢の時代に生活していた人である。後漢初期の名将でベトナム討伐などに活躍して伏波将軍の地位を得た馬援(紀元前14~後49)が、兄の子(甥っ子)に向かって「この人の好いところだと人々が言うことがあれば、それを方針とせよ」と戒めたという、その人がこの人である。
伯高後従仙人刁道林、受服胎炁之法。
伯高、後に仙人・刁道林(ちょう・どうりん)に従い、胎炁(たいき)を服するの法を受く。
この伯高は、そういうふうに評判になった後、仙人の刁道林(伝記はよくわかりません)に随がって、胎内の「気」を吸って体中にめぐらせる術を教えられた。
又常服青飪法、託形酔亡、隠処方台。師定録君。
また、常に青飪法を服し、形を酔亡に託して、方台に隠処す。定録君を師とせり。
また、いつも「青の煮込み方術」(内容不明)を服用しており、身体は酔っぱらって死んだことにして、この方台に隠れ棲んでいるのである。(この地に住む許道士の師匠である)定録君さまを彼も師匠としている。
むうーん。
これで方台に住む五人の隠者のことを話したわけじゃが、この方台は漢のころに雷神が居ったことから雷平山と名付けられていたのじゃが、
雷平山之東北、良常山之東南、其閒有燕口山。
雷平山の東北、良常山の東南、その間に燕口山有り。
この雷平山の東北、あの良常山の東南にあたるところ、その間には燕口山がある。
三小山相隅故也、一名曰方隅山。下古人曾合九鼎丹於此間也。
三小山の相隅せる故や、一名を方隅山と曰う。下は古人かつて九鼎丹をこの間に合す。
三つのあまり大きく無い山がここで出会っているからであろうか、別名を「しかくの隅の山」という。この山の麓では、いにしえの人が「九つのなべで煮たクスリ」を作っていたのである。
幽人在此時、心楽居焉。今常游此。
幽人ここに在るのとき、心楽しく居れり。今も常にここに游ぶ。
隠者の許道士の話をしておったんでしたな。
道士はここに住んでいた時、こころ楽しくしておられた。今でもいつもここらへんをさまよっておられる。
方隅山下亦有洞室、名曰方源館、亦有二口。常見外也。
方隅山下にもまた洞室有りて、名づけて方源館と曰い、また二口有り。常に外に見(あら)わる。
「四角の隅の山」の山中にも、やはり洞窟がある。方源館(方術の源の館)という名前であるが、ここも二つの入り口がある。以前から山の外からも入口はよく見えている。
常有此五人為旅。
常にこの五人の旅を為す有り。
四平山に棲む五人の修道者たちも、よくここに来ている。
そうでしたか。五人の名前(あだな)だけ挙げておきます。
張祖常(5月25日)、劉平阿(5月31日)、呂子華(6月7日)、蔡天生(6月16日)、そして龍伯高が本日(6月21日)でした。
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梁・陶弘景「真誥」稽神枢第四より。「変な文章だし、内容も何か変だぞ」と思うかも知れませんが、当たり前です。霊媒の方が「うー」「あー」と言いながら神がかってしゃべっていることを何とか意味がつながるようにメモしている文章なんです。そういう文章にしては案外意味がわかってすばらしいではありませんか。
岡本全勝さんのHPがチェックできなくなってしまいました。わたしだけなのか世界共通の問題なのかもよくわからない。
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