去山澤游(山澤の遊びを去る)(陶淵明詩)
明日やろうとしていたことができません。もう全部うっちゃって逃げるしかないのか。よし、そうしよう。御迷惑かも知れませんがよろしく。うっしっし。

あられはウマいに違いない。人生どこにだって食い物はあるだろう。スーパーのバナナまた無くなっています。
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会社勤めを辞めて田園のふるさと帰ってまいりました―――
久去山澤游、浪莽林野娯。
試携子姪輩、披榛歩荒墟。
久しく山澤の游びを去り、浪莽たり林野の娯しみ。
試みに子姪輩を携えて、榛を披きて荒墟を歩む。
長いこと山や水辺をふらふら歩いて(自然に没入することを)忘れていた。林や原野に行く楽しみもよくわからなくなっていた。
そこで、子どもや甥っ子の連中を連れて、茂みを切り開いて荒れ果てた古い村の跡地を歩いてみた。
「浪莽」は、ぐしゃぐしゃになってて「よくわからない」という意味のオノマトペです。「荒れたむかしの村」(「ふるしま」)は怪異のある場所だと思われていたはずです。
徘徊邱隴間、依依昔人居。
井竈有遺処、桑竹残朽株。
徘徊す邱隴の間、依依たり昔人の居。
井竈遺処に有りて、桑竹朽株を残す。
丘や土手のあたりをうろうろとさ迷ってみる。昔の人の住んだあとは、もうほとんどわからない。
井戸やカマドが遺されたままであり、桑や竹の朽ちた株があったりする。
借問採薪者、此人皆焉如。
薪者向我言、死没無復余。
借問す、採薪の者、この人みな焉(いずく)にか如(ゆ)ける。
薪者我に向かいて言う、「死没してまた余れる無し」と。
ちょっと訊いてみよう、そこで薪を拾い集めているお方よ、この村に住んでいたひとたちは、みんなどこに行ってしまったんだ?
薪拾いはわたしに向かって言った、「みんな死んでしまったんじゃ、誰一人残っていない」と。
ああ。
一世異朝市、此語真不虚。
人生似幻化、終当帰空無。
一世に朝市異なる、この語まことに虚ならず。
人生幻化の似(ごと)く終には空無に帰せん。
「30年もすれば、朝廷も市場も、そこにいる人は総代わり」というコトバがあるが、このコトバはまことにウソではない。
人の生などまぼろしのようなもの、最後は何もないところへ帰っていくだけなのだ。
当たり前のことではないか、みんな知っているよ、と思いましたが、不老長生も夢ではない、という時代だそうなので、「おれは大丈夫」「わたしは永遠」と思っているやつがいるといけませんので、ご紹介しておきます。
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梁・陶淵明「帰園田居(園田の居に帰る)」其四。帰去来兮、と田園に帰った、その後の時期の連作詩です。人生はまぼろしのごとし。ほんとですね。正しい政策ができないのも、政策に正しいものが無いからかも知れません。つねに正しいことがまぼろしように変化していくのでは。
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