恕己之心(己を恕(ゆる)すの心)(「小学」)
今日は午後外出して、営業先で気を遣ってまいりました。帰ってきて爆睡居眠り。まあでもいいや。誰も理解してくれないだけで、今日はいい仕事できましたから。

かざみどりはあちら向いたりこちら向いたりたいへんなんでコケー。
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などと言って、自分に甘い対応をしておって、よいのか!
宋の名臣・范純仁が、一族の若い者たちに説いた。
人雖至愚、責人則明。雖有聡明、恕己則昏。
人は至愚といえども、人を責むるはすなわち明なり。聡明有りといえども、己を恕(ゆる)すにはすなわち昏(くら)し。
あるひとがたいへんオロカだとしても、他人を責めるときにはいろんなことに気づくし、攻撃も鋭い。一方、かなり賢いひとでも、自分にあまくすることについては、おとぼけである。
爾曹但常以責人之心責己、以恕己之心恕人、不患不到聖賢地位也。
爾曹(なんじら)、ただ常に、人を責むるの心を以て己を責め、己を恕(ゆる)すの心を以て人を恕(ゆる)せば、聖賢の地位に到らざるも患(うれ)えず。
おまえたちは、いつも、他人を責めるときの心で自分の言動を反省しろ。自分にあまい心で他人にもあまくしろ。そうしてくれれば、わしはおまえらが聖人賢者にまでなってくれなかったとしても、心配せずにいられるのじゃ。
他人より優位に立ってマウントを取る、のが人生の目標と教えらえているかも知れませんが、ほんとは違って、聖人賢者になることが目標なんですよ。
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宋・朱晦庵編「小学」外篇「嘉言」第五より。己を恕すの心は強く持っております。だが人のことまで気が回りません。
「小学」は、四書の「大学」が大人の学問として理念を指し示すのに対して、実際の行動の参考になるように、朱子が先秦のひとびとの嘉言善行(上篇)と宋代のひとびとのそれ(下篇)を編集してくれたものです。これを読むだけで立派な人になれるはず。会津藩祖の保科正之が愛読し、この書を得てからは他の書物を読まなかった、というぐらい立派な本です。みなさんは立派な社会人だから十回ぐらい読んでるんでしょうね。わしは二回しか読んでないなあ。ああダメだダメだ、わしはダメだ、それでも恕す心で自己肯定したいと思います。わしはいい人だ、わしはいい人だ。
明日台風で出社しなくていいみたいです。おそらく都内では大したことないと思うのですが・・・、うっしっし。今日がんばったから、かみさまとかが見ていたのかも。でもホントに見ていたら、毎日カミナリ落ちているかも知れません。それぐらいわたしはダメなのだ。
統計もウソばかりの国だ、もうダメだ、もはや派遣業界のカルテルを責めようとする公正取引委員会以外に、この国(の国家機関)に正義はあるのだろうか・・・と国を責める(反日)より、国もウソつきたいですよね、うんうんいいですよー、と愛国の心を持つと気に入られるかも。
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