袖中出餅果(袖中より餅果を出だす)(「鶴林玉露」)
今日も食べ過ぎ。いつもお菓子を持っていて食べてしまうのですが、今日はたくさん持ちすぎていたのでずっと食べていた。ストレスかかる仕事してるからでしょう。

今日は雨ではありませんでした。
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北宋の程伊川先生は厳しい教え方で有名ですが、
毎見学者能静坐、便嘆其善学。
学者の能く静坐するを見るごとに、すなわちその善く学べるを嘆ぜり。
学生たちの中にうまく「静坐」しているやつを見ると、いつも「いい学問をしておるな」と感嘆された。
という。「静坐」は、仏教の「座禅」と同じで、静かに座って精神を統一する修養法です。
うーん。伊川先生は間違っているのではなかろうか。わたしが思うに、
静坐亦未可尽信。固有外者静而中未免膠擾者、正所謂坐馳也。
静坐もまたいまだ信を尽くすべからず。もとより外者の静にして中にいまだ膠擾を免れざる者有り、まさにいわゆる「坐馳」(ざち)なり。
「静坐」もそこまで信頼できる修養法ではないのではないか。もちろん、外から見ていると「静かに坐」しているように見えても、内面にはこだわりや騒がしさがまだ残っている者がいる。これはいわゆる「座ったまま駆け回っている」と評される者たちである。
嘗聞南岳昔有住山僧。毎夜必秉燭、造檀林衆生打坐者数百人、或拈竹箆痛箠之。
かつて聞く、南岳に昔住山僧有り。毎夜必ず燭を秉(と)り、檀林の衆生の打坐する者数百人に造(いた)るも、或いは竹箆を拈りてこれを痛箠せり。
以前、河南の南岳に山に棲む僧がおった。毎晩、蝋燭を灯して、仏寺に住む衆生(僧侶)が座禅を組むこと数百人に昇ったというのであるが、時には竹へらを手にして、彼らを打ち据えていた。
或袖中出餅果置其前。蓋有以窺其中之静不静而為是懲勧也。
あるいは袖中より餅果をその前に出だす。けだし、以てその中の静・不静を窺い、これが懲・勧を為すなり。
ある時には袖の中からまんじゅうや果物を出して僧侶たちの前に置いた。それによって僧侶たちの中に、静かなままのもの、静かでなくなってしまうものを発見して、懲らしめたり誉めたりしないといけないからである。
これはいびりですね。
彼異端也。尚能洞察其徒心術之隠微、而提撕警策之。吾儒職教者有愧矣。
彼異端なり。なお能くその徒の心術の隠微を洞察し、提撕(ていし)してこれを警策す。吾が儒職にして教うる者、愧じること有り。
それにしても、僧侶は、儒学から見たら異端の徒である。それでもなお、よくその仲間の心の持ち方の隠れた微妙な点を洞察して、いましめのムチをひっさげるのである。われら儒者にして教育を司る者は、悔しい気持ちになるのではなかろうか。
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宋・羅大経「鶴林玉露」より。どうしたら間食しなくてすむようになるのであろうか、と思いましたが、もうすぐナフサでお菓子(の入れ物)無くなれば安心です。
この人も盛岡行ってたんですね。わたしみたいなどうしようもない食生活はしていないだろうなあ。
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