此賢人也(これ賢人なり)(「後漢書」)
賢人になるためには、賢人とはどういう人なのかを勉強しなければなりません。
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後漢の戴封は済北(山東・河北)の剛州の人である。若くして洛陽の太学に学んだ。
同学石敬平温病卒、封養視殯斂、以所齎糧市小棺、送喪到家。
同学の石敬平、温病に卒し、封、養いて殯斂を視、齎すところの糧を以て小棺を市(か)い、喪を送りて家に到らしむ。
同じく太学に学んでいた石敬平という学生が、熱の出る病気で亡くなった。戴封は彼の身の回りの世話をしてやり、死後は仮葬儀を行って、仕送りの糧食を売って小さな棺を買い、実家に送り届けてやった。
家更斂、見敬平行時書物皆在棺中、乃大異之。
家更斂せんとして、敬平の行く時の書・物の棺中に在るを見て、すなわち大いにこれを異とせり。
石家では本格的な葬儀を行うために棺を換えようとして、もとの棺の中に、敬平が出かけたときに持って行った書籍や身の回りの品々がすべて入っている(全く手が付けられていない)のを知って、たいへん驚き、戴封の誠実さに感激したという。
封、後遇賊、財物悉被略奪、唯余縑七匹、賊不知処。
封、後、賊に遇い、財物ことごとく略奪せられ、ただ縑七匹、賊の処を知らざるを余すのみ。
「縑」(けん)は絹の一種で、目が細かく固めに織られたもの(「かたおり絹」→「かとりきぬ」)です。衣服や調度品ではなく、書画を書く、高級筆記用紙として使われます。彼もこれを「紙」として持っていたのかも知れません。
「匹」(ひき)はもともと「ウマのお尻の象形」で、「ウマ」の数を数える数詞です。そういわれればそう見えてきますよね。
古代から、「絹」の分量を量るのに、一頭(匹)のウマを覆う分量だとか、ウマの占める場所だかをいうとして、「匹」という数詞が使われてきました。絹の分量としては、「一匹」=「二反」=「四丈」で後漢代の一丈は約2.3メートル、なので一匹≒9メートル強、になります。
その後、戴封は強盗に遭って、持っていた金目のものをすべて奪われてしまった。堅織りの絹が七匹(40m分ぐらい)だけ、強盗たちが気づかなかったらしく、手元に遺された。
封乃追以与之、曰知諸君乏、故送相遺。
封、すなわち追いて以てこれを与え、曰く「諸君の乏しきを知る、故に送りて相遣るなり」と。
戴封はすぐに追いかけて行って、この残っていた絹も強盗に与えて、言った、
「あなたがたがもともと窮乏してこんなことをしているのだと知っております。それで、これも差し上げようと思います」
と。
賊驚曰、此賢人也。
賊驚きて曰く、「これ賢人なり」と。
強盗は驚いて言った、「これは賢人さまじゃ」と。
尽還其器物。
ことごとくその器物を還す。
盗んできたモノをすべて返して去って行った。
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「後漢書」巻八十一「独行列伝」より。「独行」はほかの人がしそうにもないこと、特に道徳的に純粋な行動、をする人のことです。
むかしの考えでは。こういうのが「賢人」なんです。盗人に追い銭、という行動形式であり、①更に損をするということで経済的にオロカである、②盗人のような反社会的存在にもっと儲けさせるのは反社会的である、の2点からオロカな行為と言わねばなりません。むかしはこんなひとが賢人だったのですから、人間が如何に進歩し、文明的になってきたかわかろうというものですね。ああ現代の我々は賢いなあ。
ちなみに、江戸時代に「盗人に追い銭」というコトバを作った人たち(俳諧師だそうですが)の教養からみて、この話を典拠として思い浮かべていたに違いないと思います。

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