痩羊博士(痩羊博士)(「東観漢記」)
死神博士みたいでかっこいいですね。

おれもかっこいいではなイカ?
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経済的平等は大切です。
後漢・光武帝の建武年間(25~56)には、
毎臘、詔書賜博士一羊。
毎臘、詔書して博士に一羊を賜う。
毎年臘月(十二月)、詔書を出して大学の博士たちを労い、一人一頭ずつヒツジを賜わるのが例となっていた。
しかし、
羊有大小肥痩。時博士祭酒議欲殺羊分肉、又欲投鉤。
羊に大小肥痩有り。時に博士・祭酒羊を殺して肉を分たんと欲し、また投鉤せんと欲す。
ヒツジには大きいのも小さいのもあるし、肥ったのも痩せたのもいた。
そのままでは不公平だということで、当時の大学の博士(各経典ごとに何人か置かれた)や祭酒(学長)たちはヒツジを生きたまま持ち帰るのではなく、殺して肉にして公平に分けたいと考えた。また、(肉を分けるときも)カギを投込んで一番いいところに引っかかったものから、希望の塊を持っていくことにしようとした。
「投鉤」という行為がわかりずらいのですが、くじ引きのようなことを「カギ(フックとかベルトの留め金など)」を投込んで行っていたのではないかと思います。
ところで、
甄宇、字長文、北海安丘人也。清静少欲、習厳氏春秋、教授常数百人、建武中徴拝博士。
甄宇、字・長文は、北海の安丘の人なり。清静にして少欲、厳氏春秋を習い、常に数百人に教授し、建武中に徴されて博士を拝す。
大学にそのころ甄宇(しん・う)、字は長文という学者がいた。山東・北海の安丘の人で、清廉で物静か、欲が少なく、厳氏が伝えていた「春秋」の学を習い、郷里で教えるに学生は常に数百人いたという。建武年間に呼び出されて、博士に任命されていた。
宇復恥之。
宇、またこれを恥ず。
(他にも恥ずかしいと思っていた人がいたようですが)宇もまた、このような行為を恥ずかしいと思った。
(他人より多く欲しい、少ないのはイヤだ、というのは学問をする者の取るべき態度ではない)
と考えて、
宇因先自取其最痩者、由是不復有争訟。
宇、因りて先ず自らその最も痩せたるものを取り、これに由りてまた争訟あらず。
甄宇はそのため、最初に自分が一番痩せて肉のないヒツジを選び取った。これをみて、他の人たちも争うことはしなくなったのである。
後召会、問痩羊博士所在、京師因以号之。
後、会に召され、痩羊博士の所在を問われ、京師因りて以てこれを号す。
その後、あるとき、皇帝主催の宴会で、「痩せたヒツジの好きな博士はどこにおられるかな?」と帝に問われることがあり、これによって有名になって、都(洛陽)中に名前が響き渡ったのであった。
甄宇はやがて、
卒於官。
官に卒す。
現役のまま亡くなった。
丁重な葬儀が行われたのである。
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「東観漢記」より。同書は後漢時代に宮中の東観で編集されていた官撰の同時代史です。たいへん史料的価値が高いのですが、散佚してしまい、現在では後漢については唐代に編集された「後漢書」が「正史」となり、「東観漢記」はその注などに使われていた一部だけが遺っています。たいへん残念ですね。
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