皆不能対(みな対する能わず)(「水東日記」)
「民法出でて忠孝滅ぶ」の言い換えなんですけど、通じませんよね。ああ、コトバはなかなか通じないことが多いものです。伝える方も伝えられる方も、もう少し相手の立場に立てれば、もうほんの少しは伝わるのかも知れません。

母の日になんでじじいがカーネーション
コトバ無くとも花だけで気持ちが伝わる・・・のは精神力が節約できてすばらしい、と教えているのじゃ。全勝さんは切り替えすぎて忘れているのでは。下の方に肝冷斎のことが書いてありますが、肝冷斎は切り替えているのではなくて、いつも同じなのではないかと思いますんじゃ。
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元の世祖・フビライハーンが南宋の平定過程で、湖北・鄂州の地で長江を渡ろうとしたのだが、その時ある地名が気になった・・・。
・・・その直前に行われた「襄陽の戦」は、長江につながる湖北・漢水の要衝を守る南宋側の名将・呂文煥を元軍が至元五年(1268)から至元十年(1273)にかけて足かけ六年間、攻囲し続けた史上名高い戦いです。水陸から襄陽を完全に封鎖するとともに、西域から導入した回回砲によって城壁を破壊するというフビライの作戦指導は功を奏し、呂文煥はついに降伏。これによって長江に出る水路を確保した元による南宋平定の道が開かれた、という重要な戦いでした。
フビライハーンは、黄鵠山という山の長江に向かった側が岩壁になっているのですが、それを指さして、
問諸父老曰、山頭石磯何名呂公。
諸父老に問いて曰く、「山頭の石磯、何ぞ呂公と名づくや」と。
集められた地元有力者たちに対して、質問なされた。
「あの山の岩壁は、なぜ「呂公岩」というのかな?」
(呂文煥と関係あるのかな? 無いよね)
地元有力者たちは言った、
唐有道人呂其姓者、吹笛於其上、故名。
唐に道人の呂姓なる者有りて、笛をその上に吹き、故に名づく。
「唐の時代のこと、呂なんとかという道士がおりまして、あの岩の上で笛を吹いていた、というので名づけられたものと聞いております」
また出ました、伝説の道士・呂洞賓説話です。
(呂洞賓なので呂文煥とは関係ないのです!)
(待て待て。どうして呂文煥を連想させる名前で、おまえたちは平気なのだ?)
フビライは首をひねって、言った、
唐以前何名。
唐以前、何と名づくや。
「では、唐以前の名前は何だったのかな?」
「は?」
皆不能対。
みな対する能わず。
誰も応えることができなかった。
おそらく唐以前はこの辺りは開発されておらず、岸壁にも記憶されるような名前は無かったんだろうと思われるのですが、誰も答えず、なんとなく気まずくなったところで、
一老叟対曰、古伝為大禹治水成功之所、後人訛為呂公也。
一老叟対して曰く、「古伝に大禹の治水成功の所と為す。後人訛して呂公と為すなり」と。
それまで黙していた老人が、答えて言った、
「古い古い伝えでは、超古代の夏の禹王さまが(中国中の治水をなされた時に、あの部分で山を切り開き、漢水と長江をつなげて、)ついに計画を成し遂げた場所であった、と言われておりました。(あまりに古い伝説なのでみな忘れておるのでございましょう。)
(唐以後、この500年ぐらいの間の)後の人が「禹」を間違って「呂」にしてしまったのでございます」
と。
(今、禹以来の大英雄・フビライさまのおかげで、南宋への道が開かれましたのでございます。)
「わっはっはっは」
帝大悦。大徳八年賜廟碑。
帝大いに悦ぶ。大徳八年、廟碑を賜われり。
もちろん、フビライはそんなことを本気にするような人ではないのですが、自らのコトバの真意を理解する者がいたので、
世祖帝は大いに喜ばれた。そのことは記録され、成宗・ボルチギンテムールの大徳八年(1308)に、禹を祀る祠に立てるための石碑が下賜されたのである。
それは今(15世紀、明の半ば)も現存している。
まことに
此事卓識也。
この事、卓識なり。
この老人の回答、実にすぐれた見識と言うべきであろう。
学問的に真実かどうか、という問題と「見識」とは別ものなのでしょう。
デザートが別腹であるようなものなのかも。
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明・葉盛「水東日記」巻十九より。世の中この老叟のような知者がいれば、えらい人のコトバはすべて理解され、何事もスムーズに行くでしょうになあ。しかし老叟も最初は口を開かなかった。やっぱり取りあえずは黙って様子を見ている方がいいようです。なるほど。
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