5月10日 ソンタク否定して思いやり滅ぶ

皆不能対(みな対する能わず)(「水東日記」)

「民法出でて忠孝滅ぶ」の言い換えなんですけど、通じませんよね。ああ、コトバはなかなか通じないことが多いものです。伝える方も伝えられる方も、もう少し相手の立場に立てれば、もうほんの少しは伝わるのかも知れません。

コトバ無くとも花だけで気持ちが伝わる・・・のは精神力が節約できてすばらしい、と教えているのじゃ。全勝さんは切り替えすぎて忘れているのでは。下の方に肝冷斎のことが書いてありますが、肝冷斎は切り替えているのではなくて、いつも同じなのではないかと思いますんじゃ。

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元の世祖・フビライハーンが南宋の平定過程で、湖北・鄂州の地で長江を渡ろうとしたのだが、その時ある地名が気になった・・・。

・・・その直前に行われた「襄陽の戦」は、長江につながる湖北・漢水の要衝を守る南宋側の名将・呂文煥を元軍が至元五年(1268)から至元十年(1273)にかけて足かけ六年間、攻囲し続けた史上名高い戦いです。水陸から襄陽を完全に封鎖するとともに、西域から導入した回回砲によって城壁を破壊するというフビライの作戦指導は功を奏し、呂文煥はついに降伏。これによって長江に出る水路を確保した元による南宋平定の道が開かれた、という重要な戦いでした。

フビライハーンは、黄鵠山という山の長江に向かった側が岩壁になっているのですが、それを指さして、

問諸父老曰、山頭石磯何名呂公。

(呂文煥と関係あるのかな? 無いよね)

地元有力者たちは言った、

唐有道人呂其姓者、吹笛於其上、故名。

また出ました、伝説の道士・呂洞賓説話です。

(呂洞賓なので呂文煥とは関係ないのです!)
(待て待て。どうして呂文煥を連想させる名前で、おまえたちは平気なのだ?)
フビライは首をひねって、言った、

唐以前何名。

「は?」

皆不能対。

おそらく唐以前はこの辺りは開発されておらず、岸壁にも記憶されるような名前は無かったんだろうと思われるのですが、誰も答えず、なんとなく気まずくなったところで、

一老叟対曰、古伝為大禹治水成功之所、後人訛為呂公也。

(今、禹以来の大英雄・フビライさまのおかげで、南宋への道が開かれましたのでございます。)

「わっはっはっは」

帝大悦。大徳八年賜廟碑。

もちろん、フビライはそんなことを本気にするような人ではないのですが、自らのコトバの真意を理解する者がいたので、

それは今(15世紀、明の半ば)も現存している。
まことに

此事卓識也。

学問的に真実かどうか、という問題と「見識」とは別ものなのでしょう。
デザートが別腹であるようなものなのかも。

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明・葉盛「水東日記」巻十九より。世の中この老叟のような知者がいれば、えらい人のコトバはすべて理解され、何事もスムーズに行くでしょうになあ。しかし老叟も最初は口を開かなかった。やっぱり取りあえずは黙って様子を見ている方がいいようです。なるほど。

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