人之処世(人の世に処する)(「不下帯編」)
あとどれぐらい処するのであろうか。

おれたちアシュラも若いころは「どっちを向いて仕事しとるんじゃ!」と叱られたものだが、最近は「もう奈良時代のやつは仕事しなくていいから」と言われておるのじゃ。
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清の時代のことなんですが、
屛之張也、直則不可立、必也回而曲之。輪之転也、方則不可行、必也揉而円之。
屏の張るや、直なれば則ち立つべからず、必ずや回らせてこれを曲ぐ。輪の転ずるや、方なれば則ち行くべからず、必ずや揉(ま)げてこれを円にす。
この「揉」(じゅう)は「もむ、手でひねって柔らげる」の意ではなく、「撓めて曲げる」の意です。
屏風を広げようする。まっすぐなままでは立たない。必ず折れた部分を曲げてやらなければならない。
車輪を転がそうとする。四角い車輪ではどこにも行けない。必ず外側を曲げて丸くしておかなければならない。
人之処世也、亦然。
人の世に処するや、また然り。
ひとが世間に対処していくのも、同様である。
なるほど。曲がったり丸くなったりしなければならないのですね!
―――いや、それだけではダメなんじゃ。
雖然、屏必有幅、輪必有軸。
然りといえども、屏には必ず幅有り、輪には必ず軸有るなり。
そうだとしても、屏風には折れ目と折れ目の間の面があり、車輪には車の輻を受ける軸がある。
屛雖欲曲、不可不斉。輪雖欲円、不可不正。
屏は曲がらんと欲すといえども、斉ならざるべからず。輪は円ならんと欲すといえども、正ならざるべからず。
屏風は曲がって立っていようとするけれど、それぞれの面は幅が均斉でなければ立っていられない。車輪は丸くなって転がっていこうとするけれど、車軸と車輪の間は正確に等距離でなければ転がらない。
「斉」(均しくととのう)と「正」(真っすぐただしい)が無ければ用を為さないのだ。
君子自処也、亦然。
君子の自処するや、また然り。
われわれ君子たらんとする者が自分に対処するときにも、同様である。
そうなんですか。「屏風は折れ曲がらなければ立っていられない、頭を下げるところでは下げるのじゃ」と若いころ教えられましたが、その語源はここにあったんですね。
此于慎行語。
これ、于慎行の語なり。
これはわしではなく、明の于慎行のことばじゃ。
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清・金埴「不下帯編」巻四より。歳をとってからも「腰は折るもの、頭は下げるもの」と教えられました(これは岡本全勝さんかも?)。「斉」と「正」は教わってないな。君子以外には要らんのやろ。経営者育成にはいるのかな。
さて、みなさんはどちら?
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