為酒饌饗(酒饌の饗を為す)(「鶴林玉露」)
飯と教えでは、特に飯が重要です。今日は有名な学者さんに昼飯ごちそうになりました。わしは食い物の恩義は案外忘れません。すべてを覚えているわけではありませんが。

いつもにゃわばり争いのおれたちも、外の世界に対しては結束するにゃぜ。人間は?
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南宋の淳煕年間(1174~89)のことだが、江西・盧陵に悪少子(半グレ)の晏先という男がいた。
以殺人減等流嶺南。行有日、逢其党二人于市、晏目之曰、蓋免我乎。
殺人の減等を以て嶺南に流さる。行有の日、その党の二人に市で逢い、晏これに目して曰く、「なんぞ我を免れざらしむか」と。
殺人罪に問われ、罪一等を減じて広州への流罪となった。連行される日、市場(おそらく罪状などをそこでさらされたのでしょう)で仲間の二人に出会い、晏先はこの二人に目配せして、「どうしておれを救い出してくれないのか」と言った。
二人は目を伏せて、
不応而去。
応ぜずして去れり。
相手をせずに消えてしまった。
「やばくなったら知らぬふりかよ・・・」
枷をつけられ、護送されて、数日ほど行くと、
送徒者節其飲食、有害之之意。
送徒者その飲食を節し、これを害するの意有り。
護送する獄官が急に彼の飲食物を減らしてきた。護送途中に餓死させて、事故死と偽って早めに江西に帰ろうというつもりであろう。
「くそ・・・」
さすがに晏先も覚悟するしかなかった。
一夕、止旅舎、二人者忽来。為酒饌饗晏及送徒者、尽夕歌呼、至暁偕行。
一夕、旅舎に止まるに、二人者忽ち来たる。酒饌の饗を晏及び送徒者に為し、尽夕歌呼し、暁に至りて偕に行く。
ある晩、旅館に着いたところ、先だっての仲間の二人が突然やってきた。(護送官に鼻薬を嗅がせて晏の枷を外させ、)酒と料理を晏と護送官にもてなし、一晩中歌を歌ったり大騒ぎして、朝になると一緒に出掛けた。
やがて、
過荒林間、二人以白金一笏擲于地、抽刃言。
荒林の間を過ぎるに、二人、白金一笏を以て地に擲ち、刃を抽きて言う。
人気もない荒れた林の間を過ぎるとき、二人は突然真顔になると、純度の高い金の笏(延べ棒)を地面に投げ出した。そして、刀を抜いて、言った。
晏、吾兄弟也。汝能釈使逃、請以此金為謝。不然、不能倶生矣。
晏、吾が兄弟なり。汝よく釈して逃れせしむれば、請うこの金を以て謝と為さん。然らざれば、ともに生くること能わず。
「晏は、おれたちの兄弟なんだ。おまえさんが、こいつを釈放して逃亡させることができる権限を持っているなら(持っていると思うが)、おの金をお礼として渡せればと願っている。だが、そんな権限はない(晏を逃走させる気は無い)というのなら、おれたちもおまえさんも生きていけないわけだ。(おまえさんを殺して、おれたちはお尋ね者になる。)
二人は、市場で何らかの受け答えをしたら何かを企んでいると疑われるのを恐れて、わざとその場では答えなかったのだ。
送徒者欣然破械縦去。
送徒者は欣然として破械し、縦ままに去らしむ。
護送官は大よろこびで、晏の枷を壊し、そのまま逃走させた。
「ただし、江西に戻って来られちゃあ、困りますぜ」
そして、
為疑冢道傍而反。
疑冢を道傍に為りて反る。
ニセの塚を道端に作って、それから引き上げて行った。
「あいつはここに埋められてる、って寸法さ」
おそらく被害者の家に、晏を虐待して死なせたと報告して、そちらからも報酬を取るのであろう。
疑冢を作るなど、意外と計画的です。もしかしたらマニュアルがあったのかも知れません。
さて、それから
越三十年。
三十年を越ゆ。
三十年以上経った。
ということは1210年ごろでしょうか。
晏自淮駕巨艦来帰、資貨巨万。
晏、淮より巨艦に駕して来帰し、資貨巨万なり。
晏先が、突然、淮水の方から巨大な船に乗って帰ってきた。おカネや貨物を何万と積んできていた。
そして、
訪二人、皆死矣。妻子方貧、不能自活。晏哭祭其墓、尽哀、厚遺其妻子、乃去。
二人を訪ぬるに、みな死せり。妻子まさに貧にして自活能わず。晏、その墓に哭祭し、哀を尽くして、その妻子に厚く遺りて、すなわち去れり。
自分を救ってくれた二人を訪ねた。だが、二人とももう死んでいた。その妻子も貧しく、人に頼って生きている状態だった。晏先は、二人の墓に参って声をあげて泣いて法事を行い、悲しみの限りを尽くした。それから二人の妻子に莫大な贈り物をして、(淮南に)帰って行った。
みなさんは、こんな歌をご存じですか。
高論唐虞儒者事、売君負国豈勝言。
唐・虞を高論するは儒者の事なれども、君を売り国に負(そむ)くもあに言に勝えんや。
唐(いにしえの堯帝の姓)や虞(舜帝の姓)の言動についてえらそうに議論するのが儒者の仕事だということだが、
そんなことを言いながら主君を裏切り国に背いたやつがいかに多いことか。
そんな中で、
凭君莫笑金椎陋、却是屠沽解報恩。
君に凭(よ)らん、金椎の陋なるを笑うなかれ、却ってこれ屠沽、報恩を解す。
あなたにこそ信頼を寄せよう。袖の中の鉄の椎がカッコ悪いとか笑ってはならぬ、
肉や酒を売る者たちこそ、(儒者などより)恩義に報いるということを知っているのだ。
この詩は任侠者たちの義の篤さを歌っているのだが、
諒哉。
諒(まこと)なるかな。
真実だなあ。
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宋・羅大経「鶴林玉露」乙編巻六より。「鉄の椎」とか「肉や酒を売る者」とか何を言っているのかね?と儒者のおえら方は言うかも知れません。これは、「史記」信陵君列伝第十七によります。
戦国の四君子の一人・魏の信陵君が、秦に攻められた趙を信義のために救うべく、魏の兵権を奪おうとした。この際、信陵君の所持した虎牌(王から兵権を与えられたことを示す)に疑いを示して軍権を譲ろうとしなかった将軍の晋鄙を、つき従っていた侠客の朱亥が、
袖四十斤鉄椎、椎殺。
四十斤鉄椎を袖し、椎殺せり。
当時の一斤は250グラム強。
10キログラムの鉄の棒を袖からぬき出し、一撃にして殺してしまった。
という。
この朱亥は、何度も信陵君から礼物などをもらっていたのに、一度も謝礼をしなかった。しかし、信陵君がいよいよ立場窮まって行動に移ることになったとき、
臣乃市井鼓刀屠者。而公子親数存之。所以不報謝者、以為小礼無所用。
臣すなわち市井の鼓刀の屠者なり。しかるに公子親しくしばしばこれを存す。報謝せざる所以は、以て小礼は用うるところ無しと為せばなり。
「やつがれは、市場や井戸のあたりに暮らし、包丁を鳴らして屠殺を業にしている者(肉屋)でござる。それなのに、侯爵さまは、何度も自らわしのところを訪ねてくださった。これまで一度も謝礼をしなかった理由は、小さな礼儀など何の意味も無い、と思っていたからでございます。
今公子有急、此乃臣効命之秋也。
今、公子、急有り、これすなわち臣の命を効(いた)すの秋(とき)なり。
今、侯爵さまは、困窮しておられます。これこそ、やつがれが命を差し上げ申し上げる時でありましょう」
と言って、信陵君と行動をともにしたのである。
肝冷斎などが道で挨拶しなかった、あいつはメシ食わせてやったのにお礼も言わん、何で年賀状出さない、などとご批判の方もおられるかも知れませんが、もしかしたら「小礼、用いるところなし!」と考えているのかも知れませんよ。
あるいは肝冷斎のふところに、四十斤の鉄椎が隠されていないと、誰が言えようか。
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