日日欲止之(日々にこれを止めんと欲す)(「陶淵明集」)
「酒」を「炭水化物の過剰な摂取」と読み替えてください。

たくさん食べるぞーい!・・・その分出せればいいのですが、ホワイトホールは仮説のままです。
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居止次城邑、逍遥自閒止。
居止は城邑に次(やど)り、逍遥として自ら閒止す。
居所としては田舎町に住んで、ふらふらとして自分勝手にのどかに落ち着いている。
坐止高蔭下、歩止蓽門裏。
坐は高蔭の下に止まり、歩は蓽門の裏に止まる。
高い木の蔭にいつも座って休憩し、いばらを編んだ粗末の門の外には出て行かない。
自分の家の田園の見回りで一日が過ぎていく。
好味止園葵、大懽止稚子。
好める味は止(ただ)に園葵、大いに懽(よろこ)ぶは止(ただ)に稚子。
食べるものの中で好きなのは畑の葵だけ、楽しみでしようがないのは幼い我が子だけ。
「葵」は「冬葵」という草花のことで、葉っぱが食用になる。我が国にも移入されたのですが、どうも我が国びとの嗜好に合わなかったようで、今では栽培種とはなっておりません(野草として存在している)。
ここまで「止」(し)という字が毎句ごとにいろんな意味で使われています。このあとはどうかな?
平生不止酒、止酒情無喜。
平生酒を止めず、酒を止むれば情に喜び無し。
ずっとお酒を止めたことはない。お酒を止めたら心に何の喜びも無くなる。
暮止不安寝、晨止不能起。
暮れに止むれば安寝せず、晨に止むれば起きる能わず。
夕方止めたら安らかに寝ることができないし、朝に止めたら起きることもできなくなってしまいそうだからだ。
一日中、止められる時が無かったのだ。
しかし、止めなければならないと思ってきたのである。
日日欲止之、営衛不止理。
日日にこれを止めんと欲するも、営衛(えいえい)止めて理せざらん。
毎日毎日、お酒を止めようと思っているのだが、「血のめぐり」がお酒を止めても調整できるとは思われないのだ。
「営衛」というのは当時の医学用語で、「脈の営み」を指すそうです。
徒知止不楽、未知止利己。
徒らに知る止むれば楽しからざるを、いまだ知らず止むことの己を利するを。
お酒を止めると楽しくなくなるとばかり無意味に考えているのだが、お酒を止めるのは自分の身体にいいことなのだとはなかなか考えられないのだ。
しかし、ついに――――
始覚止為善、今朝真止矣。
始めて止むることの善なるを覚り、今朝真に止めたり。
とうとう止めた方がいいのだと観念して、今朝、ついに本当にお酒を止めたのである。
従此一止去、将止扶桑涘。
これよりひとたび止め去りて、まさに扶桑の涘(し)に止まらんとす。
「扶桑」は東の海上にあるという仙界の一つ。我が列島を指すこともあります。
これからはひとすじにお酒を止め続け、やがては東海の仙山・扶桑のみぎわに住むことにしよう。
お酒が神仙になることを妨げるという考えがあった(竹林七賢の一人・嵆康など)のを踏まえているようですが、その考えを信用しているならもっと早く止めているはずで、おそらく信用していない。
清顔止宿容、奚止千万祀。
清顔に宿容を止め、なんぞ千万祀に止まらん。
「祀」(し)は、収穫の祭のことで、一年に一回行われることから「年」の意味です。・・・実は「年」も「稔」のことなので、一年に一回の「年」があるから「一年」の意味になるんですが、何言ってるかわからなくなってきますね。
仙人になるとぴかぴかの顔になるが、そこには以前の常人時代の面影を残しているだろう。そして生命は(不老長生だから)どうして千万年に止まることがあろうだろうか(永遠に生きることになるだろう)。
神仙思想を笑い物にしているのです。わっはっはー。
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晋・陶淵明「止酒」(酒を止む)。しかし、うそでしたー。
全句に「止」が使われていることから、「おふざけ」であることが判明します。本人の「酒」もわたくしの「炭水化物過剰摂取」もです。(>_<)
昨日・今日は二試合連続味噌ラーメン、朝のパン食べ放題など、もうめちゃくちゃ。

これがさっきの戦果。炭水化物というより寒冷斎よ、バターが。