即日納節(即日節を納む)(「宋稗類鈔」)
今日は某所へネコを観察に行って蚊にやられてきました。すごい数がいました。そのあと某所に所用を果たしたりしているうちにもうくたくたに。
この体力、気力、知力では社会のご迷惑になるばかりです。マラソンの人の横でマスコミ批判をしようにも、もう走れません。

どくはクスリとなり、クスリはどくとなるのが世の常である。偽善は何もしないよりマシ、とは思いますが、日テレのは寄付金の横領や着服だからなあ・・・。
そういえば首相のX投稿について、ネットでは「案文の調整をせずに即時に公表できるので、防災や政治主導のために役立つ、やっとこういうことができる政権ができた」という意見もあります。どくかクスリかはそう単純ではないようです。わたしにはどくっぽいですが。
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北宋の陳執中、字・招誉はいろんなエピソードを遺している人ですが、晩年、亳州節度使となった。
遇生日、親族多献老人星図。
生日に遇うに、親族多く老人星の図を献ず。
誕生日に、親族のひとびとが贈り物をくれたが、それはたいていが、南極老人星の画であった。
南極老人星は、今も南国に行けばみることのできる竜骨座カノープス(シリウスに次ぎ、全天第二の輝星なり)のことですが、唐代に老人の姿で地上に現われて皇帝の長寿を寿いだという目出度い星です。その老人の画を贈って、長寿を祝い、さらなる活躍を祈るものであった。
ところが、
侄世修独献范蠡五湖図。
侄・世修ひとり范蠡五湖の図を献ず。
甥っ子の陳世修だけは、「范蠡が越の五湖に小舟を浮かべて乗り込む図」を贈ってくれた。
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范蠡(はんれい)は戦国時代、越王句践の謀臣として句践が呉を打ち破り覇者となるのに貢献したひと(児島高徳の「桜の幹に十時の詩」で有名ですね)
大名之下、難以久居。且句践為人可与同患、難与居安。
大名の下には以て久しく居り難し。かつ、句践のひととなりは同患をともにすべきも、ともに安に居ること難からん。
たいへんな功績と名声のもとには、あまり長くは居られないものじゃ。それに、句践さまのご性格は、これまでのように苦労をともにするにはすばらしい人だが、安楽に暮らせる状態になると、ともにいられるような人ではあるまい。
と言って、句践ら仲間の止めるのも聞かず、
与其私徒属、乗舟浮海以行、終不反。
その私徒属と、舟に乗りて海に浮かびて以て行き、ついに反らず。
その親族や郎党たちともにに、舟に乗って東シナ海に浮かんで去って行き、二度と帰ってこなかった。
その後、鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて山東地方で財産を築いたのですが、それ有名になってしまったので、財産をすべて散じると陶の町(今の山東定陶県という)に移り住み、そこでもまたしこたま儲けて、陶朱公(とうしゅこう)と呼ばれるようになった・・・
以上が「史記」巻四十一「越世家」に載せる「陶朱公説話」です。これを踏まえて「桜の幹に十字の詩、天、句践を虚しうする莫し、時に范蠡無きにしもあらず」とよく読むと、かなり不敬な感じも。
それはさておき、范蠡時代に言ったという「大名の下には久しく居るべからず」がここではポイントです。
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甥っ子の贈り物の画には、「賛」(絵にふさわしい言葉)が付されていた。曰く、
賢哉陶朱、覇越平呉。各随身後、扁舟五湖。
賢なるかな陶朱、越を覇にし呉を平らぐ。
おのおの身後に随うに、扁舟五湖なり。
賢い方ですなあ、(後の)陶朱公(である范蠡さま)は。
越を覇者に導き、呉を滅ぼした。
他の功臣たちは領地をもらうなどいろいろなことに随ったが、
(彼は)越の五湖に小舟を浮かべ(て乗り込み、東シナ海へと去って行っ)たのだから。
「そうであった。少し長居しすぎたかも」
公、即日納節。
公、即日節を納む。
陳執中さまは、その日のうちに節度使の身分証をお返しして、辞職した。
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清・潘永因「宋稗類鈔」巻六「箴規篇」より。陳執中はこの時六十七歳(数え年)だと思います(淳化元年(990)生まれ、嘉祐元年(1056)隠退。なお死去は嘉祐四年(1059))。むむむ。気力体力考えるとやっぱりこのへんの年が適当ではないでしょうか。だが、「働いて働いて」が国是なので自分で隠退する時を決められず、働かなければならない人もたくさんいるようにしてあるみたいです。わしはどちらになるのかな。大名は無く、かつNISAはしてませんよ。
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