即降甘雨(即ち甘雨を降す)(「後漢書注」)
「ぼやく」は「つぶやく」の音便だということですが、より「不平を言う」のイメージが強いですね。今日も食べ過ぎ、居眠りなど何をしているのかわからない一日でした。肝冷庵の「ぼやき」は、不平というより夢の中で寝言を言っているのに近いのであろう。でも実際は褒めてくれてるんですよね。

今日は東京のお盆です。
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「後漢書」五行志一によれば、
霊帝の熹平五年(176)夏、旱(ひでり)した。
後漢書の「志」の部分は、同書の他の部分を書いた宋の范曄が処刑されてしまったため、ひと時代前の晋の司馬彪が整理していた「続漢書」の「志」をくっつけて編纂されたものです。司馬彪もそれまでのいろんな人の著述を編集して執筆してるのですが、この「五行志」については、後漢末期の知識人・蔡邑の資料を活用しているらしく、蔡邑がこの時の旱について以下のような「注」を遺してくれています。
熹平五年、天下大旱。
熹平五年、天下大いに旱せり。
熹平五年(西暦176年)、天下はすごい日照りになった。
朝廷は、
祷請名山、求獲答応。
名山に祷請して、答応を求獲せんとす。
あちこちの有名な山(の神さま)に雨ごいの祈祷を行い、答えて雨を降らせてもらおうとした。
しかし、なかなか効果はありませんでした。
時処士平陽蘇騰、字玄成、夢渉首陽。有神馬之使在道。
時に処士、平陽の蘇騰、字・玄成、夢に首陽に渉(わた)る。神馬の使の道に在る有り。
その時、朝廷に仕えていない自由人であった平陽のひと蘇騰(字・玄成)は、首陽山に行った夢を見た。夢の中では、神秘的な騎馬の使者がどこかに行こうとしていた。
平陽(平地の南側、ぐらいの意味です)という歴史地名は山西、山東、河北、浙江にあるそうですが、ここは山東の古い魯の国の都を指すだろうと思われます。首陽山は河南・洛陽の西にある山。
明覚而思之、以其夢陟状上聞。
明、覚めてこれを思い、その夢の陟状を以て上聞す。
明朝、目が覚めたあともこれをよく覚えていたので、夢の中での登山の様子を皇帝に上奏した。
処士(自由人)としては畏れ多いことではあったが、ことの重要性にかんがみてなりふり構わなかったのである。
「首陽山を忘れておったか!」
この上奏により、皇帝とその周囲の者どもは首陽山を忘れていたことに気づき、ただちに
天子開三府請雨使者、与郡県戸曹掾吏登山升祠。
天子、三府の請雨使者を開き、郡県の戸曹掾の吏とともに山に登りて祠に升らしむ。
天子は、中央の重要な三つの大臣府(司空、大尉、御使)の雨ごいの使者を任命し、地元の郡県の民事担当の役人とともに首陽山に登り、その頂上にある祠に詣らせた。
大急ぎで出発させたので、皇帝からの祈祷の書が間に合っていなかったので、使者は、
手書要曰、君況我聖主以洪沢之福。
手書して要(もと)めて曰く、「君、我が聖主に況(たま)うに洪沢の福を以てせよ」と。
その場で書いた祈祷書を神に提出した。
「神さま、わしらの立派な君主に、どうぞ大いなお湿りのしあわせを、賜りませんことを」。
「況」はここでは「貺」(キョウ、たまわる)と同義に使われています。
その素直な祈祷書が神に通じたのであろうか、
天尋興雲、即降甘雨。
天、尋(つい)で雲を興し、即ち甘雨を降す。
すぐに空に雲が湧きだし、あっという間に待っていた雨が降り出した。
この山は伯夷と叔斉の兄弟が籠って飢え死にしたところです。聖明な君主が民のためを思って祈れば、必ず効果があるのであった。
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「後漢書」五行志一「注」より。おそらく当時のひとはみんな(首陽山への祈祷を忘れているのでは・・・)と漠然と思っていて、その共同無意識が蘇騰に夢を見させ、ひとびとの共同した願いが、ついに天候の変化まで惹き起こした・・・と解釈しておきましょう。「処士」を「自由人」と訳しましたが、「待機中の非正規公務員」とでも表現した方が近いのかも知れません。
我が国では、夢のような週刊誌ネタでは効果なかったみたいですね。
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