方行万里(まさに万里を行かん)(「後漢書」)
ある人に聞いたところでは、昭和は64年ある、と思うと間違いで、62年の前と後に一週間をひっつけたもの、なんだそうです。でも、昭和レトロとか高度成長とかバブルなどを喧伝する人たちにとっては、昭和は35年ぐらいから後しか無いんではないか。それは確かに夢と希望の時代でしょう。記憶の書き換えの速さは、まことに席(座布団)を暖める暇も無いほどである。

「芋粥」や「蜘蛛の糸」は大正年間に発表されたんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
後漢の建安十二年(207)秋、献帝を擁して河北の地を統一中の曹操(後の魏の太祖)は遼西の地に兵を進め、北方民族の烏垣(うがん)を討った。本拠を追われて、烏垣の領域に亡命してもなお曹操に反発する袁尚、袁熙を捕えることが目的である。
袁尚、袁熙は、敗走し、遼東から朝鮮半島にかけて勢力を保持していた公孫康のもとに奔った。
袁尚は豪遊を以て鳴る人物、兄である袁熙(ただし袁尚が父・袁紹の後継者になっていますので、袁尚の方がちょっとえらい)に言うに、
今到遼東、康必見我。我独為兄手撃之、且拠其郡、猶可以自広也。
今遼東に到れば、康必ず我を見ん。我独り兄のためにこれを手撃し、かつその郡に拠りて、なお以て自広すべきなり。
「これから遼東に行けば、公孫康のやつが必ず面会を求めに来るであろう。おれだけで、兄さんのためにやつをこの手で討ち取って、そのままやつの支配している遼東郡を拠点にして、もう一度領地を広げようではないか」
実際に公孫康は袁尚兄弟に面会を求めて来た。しかしながら、彼の方も、
心規取尚以為功、乃先置精勇於厩中、然後請尚、熙。
心には尚を取りて以て功を為さんことを規し、まず厩中に精勇を置き、然るのちに尚・熙を請う。
内心では袁尚を捕らえて(曹操への)功績を作ろうと考えており、まず(面会場の)馬の休憩場に精強な勇者たちを隠しておき、それから袁尚、袁熙を呼んだ。
「お前の考えがうまくいくはずなんてないぞ」
熙疑不欲進、尚彊之、遂与倶入。未及坐、康叱伏兵禽之、坐于凍地。
熙、疑いて進むを欲せざるも、尚これを彊し、遂にともに入る。いまだ坐するに及ばずして、康、伏兵を叱してこれを禽(とら)え、凍地に坐せしむ。
袁熙は疑念を持って進もうとしなかったが。袁尚に無理強いされて、一緒に会場に入った。そして、座につこうとする前に、公孫康は伏兵に指示して二人を捕えさせ、もう秋の冷たく凍った北地の地面に引き据えた。
袁尚は公孫康に向かって言った、
未死之間、寒不可忍、可相与席。
いまだ死せざるの間は寒きこと忍ぶべからず、席を相ともにすべし。
「生きている間は、寒さががまんできんな。座布団をともにして、少し話してみんか」
公孫康は言った、
卿頭顱方行万里、何席之為。
卿の頭顱(とうろ)まさに万里を行かんとす、何の席かこれ為さんや。
「あなたさまのお頭蓋骨は、これから万里の遠くまで行かれるのですから、暖まるべき座布団などどうして必要でしょうか」
遂斬首送之。
遂に斬首してこれを送る。
とうとう首を斬って、これを曹操さまのもとに送り届けた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「後漢書」巻七十四下「袁紹列伝」より。歴史ものばかり引用していると歴史ファンだと思われるので一週間に一回ぐらいにしておこうと思っているのですが、やっぱりおもしろいですよね。まるでこの目で見たかのように書いているのが。眉に唾して読まなければなりません。
いろんなところで昭和100年関連をやっているみたいです。このネコのことは知ってました。このネコは「たけし」という名前の珍しいオス三毛で、隊員によって観測隊長の永田武志さんと同じ名前をつけられ、観測船宗谷や昭和基地で「たけし、しっかりしろ」「たけし、今日は元気だな」とからかわれながら越冬にも成功したそうです。上司の名前をつけるとは卑劣ですね。(笑)
カラフト犬と違って日本まで帰ることができ、帰国後(おそらく)メスネコの後を追って失踪したらしいです。

昭和基地で宴会中の「たけし」たち。(想像図)
コメントを残す