方来之事(まさに来たらんとするの事)(「玄品録」)
本日は、過去の、忘れてしまっていたことを多く思い出し、恥ずかしい限りです。もうダメだ。これからもまだ、情けない、恥ずかしいことをたくさんしてしまい、最後はそういうのを走馬灯のように思い出すのでしょう(みなさんも、ですよ)。ああ、未来のことが予測できてしまいました。困ったことではありませんか。

明日からもう二月ですと! なぜ明日が来ることがわかるのか?
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後漢の王方平は東海(山東)のひと、孝廉(親孝行で廉直)と評価されて推薦され、郎中から中散大夫と政府の中堅幹部に至った。
博学五経、尤明天文図讖河洛之術、逆知天下盛衰之期、九州吉凶、観諸掌握。
五経を博学し、尤も天文・図讖(としん)・河洛の術に明るく、天下の盛衰の期を逆知し、九州の吉凶もこれを掌握に観る。
儒学の五つ経典(書・詩・易・礼・春秋。これは当時は未来の予測にも使われていた)を広く学び、中でも天体の動きの社会的意味、未来のことについての図象や予言の内容、黄河の龍の背中に描かれていた模様(「河図」。先天易の八卦図)、洛水の霊亀の甲羅に描かれていた図(「洛書」。後天易の八卦図に使われる縦横斜めの合計がすべて十五になる九マスの魔法陣)を利用する未来予想術をよく理解して、天下が盛んになる・衰える時期を予測して、古典中国の九つの地方のどこがうまくいき、どこで悪いことが起こるかを手のひらに握っているものを見るように、たやすく知ることができた。
という「月刊ムー」に載りそうな異能の官僚であったが、彼の能力を理解し、信頼して社会をより良くしようという人は、当路者に無かった。
後棄官、入山修道、道成。
後、官を棄て、入山して道を修め、道成れり。
やがて官職を棄てて山に入り、そこでさらに道の研究を進め、ついに真理に到達した。
たいへんな賢者だ、と有名になったので、当時の桓帝(在位146~168)から都に戻って高位に就くよう、何度も召されたが応じなかった。帝はついに、
使郡牧逼載以詣京師。
郡牧をして逼載せしめて以て京師に詣ぜしむ。
郡の太守に命じて強制的に馬車に乗せて、都・洛陽まで運んで来させた。
だが、方平は、
低頭閉口、不敢答詔。乃題宮門扇版四百余字、皆説方来之事。
低頭閉口して敢えて答詔せず。すなわち宮門の扇版に四百余字を題し、みな方来の事を説く。
頭を低くしたまま口を開かず、とうとう帝の高位に就けという詔に対して応答せず、やがて王宮の門の開閉する板に四百字あまりの文字を書きつけた。その内容は、すべてこれから起こること、すなわち未来の事の予測であった。
帝悪之、使人削之。
帝これを悪み、人をしてこれを削らしむ。
皇帝はこれを気持ち悪がって、人に命じて書きつけを削らせてしまった。
すなわち、未来予測の術(それは当路者を批判する内容を含む)によって方平を重用しようとするのではない、ということである。賢者として飾りになってもらえればいいだけじゃよ。
しかし、
外字始去、内字復見。墨皆徹版裏。
外字始めて去るに、内字また見(あら)わる。墨、みな版裏に徹せり。
削って、とりあえず表面の文字を消した。ところが、そうすると、板の中から文字がまた滲みだしてくるのだ。なんと、表から書きつけた墨が板にしみ込んで、すべて裏側まで達していたのである。
「むむむ!」
方平がその後どうなりましたかは、またのお楽しみ。
さて、王方平なら、「刻一刻と変化する経済や国際情勢」にどう対応すればいいか、どんな答えを出したであろうか。
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元・張雨「玄品録」巻二より。「玄品録」は古代から宋までの神仙・道士たちを時代別に並べ、伝記を書した上で、「道権」(道に沿って権力を行使した人)、「道品」(定義がよくわからないのですが、品格があると推薦された過去を持つ神仙や道士、という意味ではないでしょうか)、「道化」(道を広めるために変化した人、人に影響を与えた人など)、「道儒」(道を学んだ儒学者)などの種類に分類・評価した本です。王方平は「東漢」(後漢)の「道品」に位置付けられています。
伝記部分は「史記」「漢書」など歴代の正史から引用している人が多いのですが、この王方平については、宋代に成立した「歴代神仙体道通鑑」や「雲笈七籤」などの道教の書に拠っているようです。
未来のことを完全に予想できる人が政府の中にいたら、皇帝や大臣や宦官でも外戚でも正義派官僚でもなんでも、他の人が権力を掌握できなくて困りますから、本当のことは言いません、と約束しないかぎり、権力の中にはいられないのでありましょう。過去のことをぶつぶつ言っているやつならいいかも知れませんが。
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