日月曾食(日月曾て食す)(「抱朴子」)
ほとんどのことは確率の問題ですよね。

日月は欠けても後で元に戻るのに、なぜスイカは割れたままなのか。根性が足りないのか。本をすてた書斎はそのまま空いているのか、また埋まるのか。
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東晋の時代、あるひとが言った。
神仙不死、信可得乎。
神仙は死せずとは、まことに得べけんや。
神仙は死なないということだが、ほんとうにそんなことがありうるのか。
そこで、抱朴子(汚れない真理を抱いた先生)たるわたくし、葛洪はお答えした。
漢の劉向が「列仙伝」を著しており、その中に何百という人々が仙人になったことを記録しています。
非妄言也。
妄言には非ざるなり。
ウソを言っているのではないでしょう。
世人以劉向作金不成、便謂索隠行怪、好伝虚無。所撰列仙、皆復妄作。
世人、劉向の金を作りて成らざるを以て、すなわち索隠して怪を行い、好んで虚無を伝うと謂う。撰むところの「列仙」も、みなまた妄作なり、と。
世間のみなさんは、劉向さまが黄金を製造しようとして失敗したことを指摘して、隠された秘密を探し求めて奇怪な行動を取り、虚空間とか無の実在などのことを人に伝えようとしたのだ、と言う。(そんなことは真実から離れてしまっており、)彼が記述した「列仙伝」も、すべてウソばかりだ、と言う。
悲夫、此所謂分寸之瑕、棄盈尺之夜光、以蟻鼻之欠、捐無価之淳鈞。
悲しいかな、これいわゆる分寸の瑕(きず)を謂いて盈尺の夜光を棄て、蟻鼻の欠を以て無価の淳鈞(じゅんきん)を捐つるなり。
悲しいことだなあ。おまえさんたちの言っていることは、一分か一寸の小さなキズがあるからといって数十センチの直径を持つ夜に光る珠を棄ててしまったり、アリの鼻ほど欠けているのを見つけたからといって値段のつけようもない名剣・淳鈞を捨ててしまったりするのと同じなのだぞ。
金を作る方法は、劉向は書物に書いてあることを実行してみただけで、他に何か口訣(先生から聞く口頭の秘密)が必要だろうと認識していたようです。神仙の方は秦の時代の書物を調べ、また自分が聞いたことも加えて記したものですから、間違いはないのです。それなのに、金を作ることと同列にして信じないのでは、ダメだ。
狂夫童謡聖人所択、芻蕘之言、或不可遺。采葑采菲、無以下体。
狂夫・童謡も聖人の択ぶところ、芻蕘(すうじょう)の言もあるいは遺すべからざるあり。「葑(ほう)を采(と)り菲(ひ)を采る、下体を以てする無かれ」という。
狂った男のいうこと(「論語」の狂接輿)やわらべ歌(「童」といわれる奴隷たちの歌のことです。左伝に例あり)、聖人・孔子は選択して後世にお遺しになられた。草刈り(「芻」)は薪取り(「蕘」)の言葉にも捨ててしまってはいけない真理があろう。
「詩経」の邶風「谷風」の詩に
「かぶらを収穫しよう、かぶらを収穫しよう、根っこが苦いと言って捨ててはいけない」
というとおり、どんなものでも悪いところばかりではないのである。
豈可以百慮之一失而謂経典之不可用、以日月曾食之故、而謂懸象非大明哉。
あに百慮の一失を以て経典の用いるべからざるを謂い、日月の曾て食するの故を以てして、懸象の大明に非ずと謂うべけんや。
どうして、百の深い考えの中に一つぐらい間違いがあると言って古典をもう使えないと謂ったり、太陽や月が以前食することがあったからといって、空に懸けられた二つの天体(太陽と月)が非常に明るいものではない、ということができようか。
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晋・葛洪「抱朴子」内篇より。やっぱり神仙はいるんですね。日食・月食があるからといって太陽も月も普段はぴかぴかであること、普通のひとは疑いません。神仙はいなさそうに見えるとしても、普段はいるはずです。よくわかりました。
そういえば今日は月食・・・だと思ったら昨日だったのか!自分に頭来て血圧あがった!・・・のではなく最近の食生活のせいでは。さすがにまた薬飲まナイトいかんか。
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