6月5日 本当のことを言うとやられるかも知れないので

誕反為功(誕、反って功と為る)(「淮南子」)

ウソをついて、バレそうになって、言い訳ばかりして生きてきたんです。

命題「ウソをつくのは悪いことじゃない、ウソをつくような弱い人間こそ愛されるべきなのだ」はウソではないかも知れないぜ。

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春秋の時代、魯の僖公の三十三年(前627)、春、秦の穆侯は鄭を奇襲せんとして、兵を出した。

及滑、鄭商人弦高将市於周、遇之。

「滑」は、秦から周を通って、鄭に入ろうとするあたりにある小さな都市です。強いていえば周の属邦といった扱いで、どこかの国に明確に所属はしていなかったらしい。

弦高は考えた。

(我が鄭を討とうとするらしいが、国都には準備はできていない。・・・一芝居打つか)

以乗韋、先牛十二、犒師。

「乗」は四頭立ての馬車のことですが、ここでは数詞に使って、「四つの」の意。「韋」はなめし皮ですが、本来のプレゼントは十二頭のウシです。当然、食べてもらおうというのである。春秋時代は、本来の贈り物をする前に、より小さな贈り物をし、「下の者が気づかずに失礼しました、あなたさまの価値はもっとでかい贈り物に値することをわたしは知っております」という趣旨で、本来贈りたかったものを持って行く、という仕来たりでした。

「あほとちゃうんか?」
と思うと思いますが、むかしの人はそうしていた、ということでございます。わたしがあほなのではございません。

そして、言上した。

寡君聞吾子将歩師、出於敝邑、敢犒従者。

不腆敝邑為従者之淹、居則具一日之積、行則備一夕之衛。

「腆」(てん)は「手厚くもてなす」という意味です。「不腆」は「てあつくない」。

軍礼に適った申し出である。断るわけにはいかない。(後の戦国時代になると、断ってもいいや、やっつけてしまえ、になるのですが、このころはまだ礼に外れたことをすると自分たちにバチが当たる、みたいな考えが常識だったのじゃ)
秦軍は進撃を止めて、ウシを屠って陣宴を張った。その間に、弦高は、急ぎ使者を立てて、国都に秦軍が迫っているのを伝えた。

秦の軍師・孟明は穆公に言った、

鄭有備矣。不可冀也。攻之不克、囲之不継。吾其還也。

しかし、何もしないと国内で批判されてしまうので、「滑」の町に周に対する失礼があったので、膺懲しに来たことにして、滑を滅ぼして引き上げた・・・。(のですが、その帰途、殽(こう)の地で、同盟軍であった晋に奇襲され、大敗を喫することになる。これ春秋五大戦の一、殽(こう)の戦いであります。)

・・・と、「春秋左氏伝」僖公三十三年条にございます。

さて、

言而必信、期而必当、天下之高行也。直躬其父攘羊而子證之。尾生与婦人期而死之。

「直躬」のことは「論語」にございます。「尾生」は戦国時代に伝説化されたことらしく、「尾生の信」とか「抱柱の信」といってくだらない約束事を守ることを批判するのに使われます。

直而證父、信而溺死。雖有直信、孰能貴之。

一方、

夫三軍矯命、過之大者也。

しかし、鄭の商人・弦高は、独断で虚言を以て、

賓秦師、而却之以存鄭国。

故事有所至信反為過、誕反為功。

勉強になりますね。

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「淮南子」巻十三・氾論訓より。二回分ぐらい書いてしまいました。今日も遅くなってきた。目がしょぼしょぼして開いてられなくなってきました。こんなことでは明日も朝起きられないのでは・・・。実は昨日も今日も遅刻。五分も遅れていないのに年休出さねばならないのです。もうあたま来たから、明日はどかんと遅刻してやるのだ。いつまでもペコペコしている肝冷斎さまじゃねえぜ。

なお、上記の「殽の戦い」によって、秦は大きな痛手を受けて、しばらく中原に手を出せなくなりますが、勝者の晋は、それまで晋秦同盟によって西側国境の憂いがなく、共同して北方の戎、東方の斉、南方の楚に対処していたのですが、秦を敵に回してしまったことにより、覇者としての活動ができなくなってしまった。これ以降、楚の攻勢を許すことになるという、春秋時代の前後半を分ける分水嶺となった戦でございました。人間は多くの場合「公務員憎し、やっつけたった!」のような目先の快感のために、もっと大きなものを失っていくんです・・・ね。

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