誕反為功(誕、反って功と為る)(「淮南子」)
ウソをついて、バレそうになって、言い訳ばかりして生きてきたんです。

命題「ウソをつくのは悪いことじゃない、ウソをつくような弱い人間こそ愛されるべきなのだ」はウソではないかも知れないぜ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
春秋の時代、魯の僖公の三十三年(前627)、春、秦の穆侯は鄭を奇襲せんとして、兵を出した。
及滑、鄭商人弦高将市於周、遇之。
滑(かつ)に及び、鄭の商人・弦高、周に市せんとして、これに遇う。
「滑」は、秦から周を通って、鄭に入ろうとするあたりにある小さな都市です。強いていえば周の属邦といった扱いで、どこかの国に明確に所属はしていなかったらしい。
滑の町まで進軍してきたところで、鄭から周に商売に行こうとして(隊商を率いてきた)商人・弦高と遭遇した。
弦高は考えた。
(我が鄭を討とうとするらしいが、国都には準備はできていない。・・・一芝居打つか)
以乗韋、先牛十二、犒師。
乗韋を以て、牛十二に先んじ、師を犒(ねぎら)う。
「乗」は四頭立ての馬車のことですが、ここでは数詞に使って、「四つの」の意。「韋」はなめし皮ですが、本来のプレゼントは十二頭のウシです。当然、食べてもらおうというのである。春秋時代は、本来の贈り物をする前に、より小さな贈り物をし、「下の者が気づかずに失礼しました、あなたさまの価値はもっとでかい贈り物に値することをわたしは知っております」という趣旨で、本来贈りたかったものを持って行く、という仕来たりでした。
「あほとちゃうんか?」
と思うと思いますが、むかしの人はそうしていた、ということでございます。わたしがあほなのではございません。
四枚のなめし皮を事前に贈り、ついで十二頭のウシを献上して、秦の軍隊を歓迎した。
そして、言上した。
寡君聞吾子将歩師、出於敝邑、敢犒従者。
寡君、吾が子の歩師を将(ひき)いて、敝邑(へいゆう)に出づるを聞き、敢て従者を犒(ねぎら)わんとす。
「わが鄭の主君は、あなたさまが歩兵を率いてわたしどもの貧しい都市国家にお見えくださったことを聞き、(豊かなあなたさまの国にとってはそんなことは要らないでしょうけど)無理に、(穆公はそんなことしなくても食い物はあるでしょうけど)従者のみなさまをおねぎらい申し上げるよう、わたしに命じましたのでございます」
不腆敝邑為従者之淹、居則具一日之積、行則備一夕之衛。
不腆の敝邑は従者の淹(ひさ)しきが為に、居るにはすなわち一日の積を具し、行くには一夕の衛を備えんとす。
「腆」(てん)は「手厚くもてなす」という意味です。「不腆」は「てあつくない」。
「お客様に冷たい貧乏都市国家のわたしどもですが、従者のみなさまが長くとどまっていただけるよう、一日滞在されるなら一日分の食糧を、(どこに行くか知りませんが)行軍されるならその晩の護衛を、わたしどもで用意させていただこうと思っております」
軍礼に適った申し出である。断るわけにはいかない。(後の戦国時代になると、断ってもいいや、やっつけてしまえ、になるのですが、このころはまだ礼に外れたことをすると自分たちにバチが当たる、みたいな考えが常識だったのじゃ)
秦軍は進撃を止めて、ウシを屠って陣宴を張った。その間に、弦高は、急ぎ使者を立てて、国都に秦軍が迫っているのを伝えた。
秦の軍師・孟明は穆公に言った、
鄭有備矣。不可冀也。攻之不克、囲之不継。吾其還也。
鄭に備え有り。冀(こいねが)うべからず。これを攻むるも克たず、これを囲むも継がざらん。吾、それ還らん。
「ここまで慰労しにくるとは、どうやら鄭は我々の奇襲を予想して備えておるようですな。(そんなことはないのではないか、などと)万一を期待してはいけません。そうすると、急襲してもすぐに勝てず、包囲して持久戦に入ると我が軍は後詰めがありません。これはひきあげた方がよろしかろう」
しかし、何もしないと国内で批判されてしまうので、「滑」の町に周に対する失礼があったので、膺懲しに来たことにして、滑を滅ぼして引き上げた・・・。(のですが、その帰途、殽(こう)の地で、同盟軍であった晋に奇襲され、大敗を喫することになる。これ春秋五大戦の一、殽(こう)の戦いであります。)
・・・と、「春秋左氏伝」僖公三十三年条にございます。
さて、
言而必信、期而必当、天下之高行也。直躬其父攘羊而子證之。尾生与婦人期而死之。
言いては必ず信、期して必ず当たるは、天下の高行なり。直躬(ちょくきゅう)はその父の羊を攘(ぬす)みて子これを証し、尾生は婦人と期してこれに死す。
コトバを発しては必ず信頼され、約束したら必ずそのとおりにする、というのは世界共通の立派な行いである。それに則って、魯の直躬という人はその父親が他人のヒツジを盗んだ、というのを証言したし、尾なんとかというやつは、女性と橋の下で会うと約束したので、その後大雨になっても橋の柱を抱いて待ち続け、ついに溺死したのであった。
「直躬」のことは「論語」にございます。「尾生」は戦国時代に伝説化されたことらしく、「尾生の信」とか「抱柱の信」といってくだらない約束事を守ることを批判するのに使われます。
直而證父、信而溺死。雖有直信、孰能貴之。
直にして父を証し、信にして溺死す。直信有りといえども、だれかよくこれを貴ばん。
正直ものだと言って父の犯罪の証人となり、約束を違えないと言って溺死してしまう。正直で約束を守るといっても、いったい誰が彼らを尊敬するであろうか。
一方、
夫三軍矯命、過之大者也。
それ、三軍の命を矯(た)むるは、過ちの大なるものなり。
さてさて、軍隊の命令系統でウソをつくというのは、甚だしく、してはいけないことである。
しかし、鄭の商人・弦高は、独断で虚言を以て、
賓秦師、而却之以存鄭国。
秦の師を賓し、しかしてこれを却(しりぞ)けて以て鄭国を存す。
秦の軍を慰労し、それによってこれを撤退させて、鄭の国を守ったのだ。
故事有所至信反為過、誕反為功。
故に、事に至信の反って過ちと為り、誕(たん)の反って功と為るところ有り。
こういうわけで、事態によっては、絶対約束どおりにすることが、反って間違ったこととなり、うそつき・はったり・ほら吹きが反って大成功になることがあるのである。
勉強になりますね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「淮南子」巻十三・氾論訓より。二回分ぐらい書いてしまいました。今日も遅くなってきた。目がしょぼしょぼして開いてられなくなってきました。こんなことでは明日も朝起きられないのでは・・・。実は昨日も今日も遅刻。五分も遅れていないのに年休出さねばならないのです。もうあたま来たから、明日はどかんと遅刻してやるのだ。いつまでもペコペコしている肝冷斎さまじゃねえぜ。
なお、上記の「殽の戦い」によって、秦は大きな痛手を受けて、しばらく中原に手を出せなくなりますが、勝者の晋は、それまで晋秦同盟によって西側国境の憂いがなく、共同して北方の戎、東方の斉、南方の楚に対処していたのですが、秦を敵に回してしまったことにより、覇者としての活動ができなくなってしまった。これ以降、楚の攻勢を許すことになるという、春秋時代の前後半を分ける分水嶺となった戦でございました。人間は多くの場合「公務員憎し、やっつけたった!」のような目先の快感のために、もっと大きなものを失っていくんです・・・ね。
コメントを残す