男子通称(男子の通称なり)(「梁渓漫志」)
女子ではないのです。

「わたしたち女の子も変成男子になれば成仏できるかもよ!」←これはマズい。あわわわ。取り消しです。取り消しましたからね。
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昨日、「子墨子」を「墨子先生」と訳しました。「墨先生先生、と訳さなくていいのか」という疑問はありませんでしたか。ありませんか。なくていいんです。
子者、男子之通称。若文字間称其師、則曰子某子。
子なるものは、男子の通称なり。もし文字間にその師を称するには、すなわち「子某子」と曰う。
子というのは、男性全員に通用する呼び方なのである(~殿、というイメージ)。もし、文章の中で、自分の師匠(Aさんとします)を呼ぶ時には、(子の間に挟んで)「子A子」と書く。
復冠子字于其上者、示特異于常称、曰吾所師者、則某子云爾。
子字をその上にまた冠するは、特に常称に異なるを示し、「吾が師とするところの者、則ち某子」と云うのみ。
子の字を上にもう一回かぶせているのは、特に普通の呼び方ではないことを明確にしており、(「子A子」は)「わたしが師匠としているところのAどの」と言っているだけである。
例えば、「列子」で門人たちが列御寇のことを「子列子」と呼んだり、「春秋」公羊伝の筆者たちが自分たちの師匠を「子公羊子」と呼んだりしている。
また、隠公十一年の公薨条の公羊伝に
子沈子曰、君弑、臣不討賊、非臣也。不復讐、非子也。
子沈子曰く、君弑されて臣賊を討たざれば、臣にあらざるなり。復讐せずんば、子にあらざるなり。
「子沈子」がおっしゃるには、「主君が殺されたのに、その下手人を臣下がどこまでも追いかけて討伐しないなら、そいつは臣下ということができぬ。どこまでも追いかけてかたきを討たなければ、子ということができぬ」と。
という有名な伝がある(こちらも参照)が、その後漢・何休の注にいう、
子沈子、後師。沈子称子冠氏上者、著其為師也。不但言子曰者、辟孔子也。其不冠子者、他師也。
子沈子は、後の師なり。沈子、称するに子を氏上に冠せるは、その師たることを著わすなり。ただ「子」と言うのみならざるは、孔子を辟(さ)くるなり。その子を冠せざるは、他の師なり。
「子沈子」とは誰か。(孔子より)後代の師匠である。沈子を呼ぶのに、その氏「沈」の前に「子」をかぶせているのは、その人が著者の師匠であることを明確にしているのである。(師匠なら単に「子」といえばいいではないかと思うかも知れないが)子一字だけだと「論語」の孔子みたいになってしまうので、それを遠慮して、「沈」という氏をつけてあるのである。もし、子を氏の前につけない(つまり「沈子」の二文字)場合は、他の人の師匠ということになるのである。
と。
へー、そうなんだ。
なお、清代になるとこの何休注は「公羊学派」のみなさんの必読の書になって大人気になりますので、清代に知識人として遇されたい人は読んでおかないといけません。ただ、これを見ると、後ろにつけた「子」も「先生」の意だと言ってますので、何休注は「子は男子の通称」とは言い切ってないように見えますね。
しかし、
陳後山以南豊弁香、称以子曾子、蓋用此法。
陳後山の南豊を以て弁香とし、称するに「子曾子」を以てするは、この法を用うるなり。
北宋の陳後山が、曾南豊を師匠としていたので、「子曾子」と呼んだのは、今(宋の時代)でもこの使い方をしているのである。
いっぽう、
劉夢得自為伝、乃加子于上者、非是。而今人承其誤、亦多以自称、或称其朋友、皆失之矣。
劉夢得の自ら伝を為せるに、子を上に加うるは、是に非ず。しかるに今人その誤を承け、また多く以て自称し、或いはその朋友を称するは、みなこれを失えり。
劉夢得(唐の詩人・劉禹錫)が自伝を書いたときに、自分のことを(「劉子」と男子の通称で書くだけでなく)「子劉子」と「子」の字を前に加えたのは、正しくない。ところが、現代人はその誤りをそのまま引き継ぎ、自分の氏の前に「子」をつけたり、あるいは(同格の)友人に対して同様にしているのは、すべて大間違いの愚か者野郎である。
なのだそうです。
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南宋・費兗「梁渓漫志」巻五より。というわけで、「子墨子」は「墨子先生」と訳して間違いないんです。また、肝冷斎が自分のことを「子肝冷子」というのはおかしいんです。「肝冷子」ぐらいなら「男子の通称である」と言い張れば間違いでないかも。いや、ジェンダー的にマズいかも知れないので、止めておこうっと。ふうふう、このナマスはアツモノではなさそう・・・かな? どこでどう炎上するかわからんぞ。
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