9月8日 むかしのひとはむしろこんな感じが普通

無与卿(卿に与かる無し)(「二石伝」)

関係ないことに関与しようと口出ししてはいけませんよね、という話だと素直に思って読んではいけません。殺伐としているので子ども閲覧中止チャイナの歴史や文学の好きな子どもなら免疫があるので大丈夫ですが。

正面から狙われてしまうかも。

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五胡十六国の中に、羯族の建てた後趙という国があります。華北の一部に、319年~351年まで存在しました。この後趙の創設者が石勒さま、石勒の息子の石弘が二代目になるんですが、一年ぐらいで石勒の甥に該たる石虎が国を乗っ取りました。石虎さまの在位は335年から349年まで。後趙はこの石勒さまと石虎さまの在位年数を除くと、5人で3年ぐらいしかやってないので、この二人を後趙の「二石」と申します。お二人ともすごい方々で、いろんなエピソードを残しておられます。

今日は石虎さまの方のお話をいたしましょう。

石虎さまは、はじめ鄭氏を娶り二男を儲け、後に崔氏を得ました。

崔、至相敬持、無児。鄭復生男、崔求養、鄭不許。

という状況下で、その子供が生後数か月で亡くなってしまった。

鄭讒崔謂妾多養胡子。

「胡子」(えびすの子ども)は、石虎ら異民族を貶めた言い方になっているわけです。

石虎時踞胡床于庭中、大怒、索弓箭。

崔聞欲殺之、徒跣至虎前、曰、公勿枉殺妾、乞聴妾言。

案外落ち着いているのを見ますと、おそらくこういう場面がこれまでも何度もあったんだと思います。

虎但言、促還坐、無与卿。

崔便去。

未至、虎于後射之、中腰而覆。

もちろん死にました。

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後趙・王度「二石伝」より。殺伐たる社会が目の前に浮かぶようです。

なお、前燕・田融の「趙書」の方にも同じ事件が記されていますが、こちらによれば、鄭氏に生まれたのは女の子で、百日で死んでしまったそうです。

石虎の前に飛んできた崔夫人は、「二石伝」では何の申し開きもする前に追い返されていますが、「趙書」の方では、

外舎見小子以少唾其容作祟。非薬也。

と言ったんだそうです。崔夫人は毒殺を疑われてい(ると思ってい)たようですね。

しかし、この言い訳をしているときに、

後石乃射之、一箭通中而死。

と正面からやっつけたと書いてあります。不言実行です。。
人間性なんかくそくらえ!の時代と人物、この無造作さの方がより写実的かも。みなさんのお好みはどちらですか?(いずれも清・湯球編「三十国春秋輯本」所収

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