無与卿(卿に与かる無し)(「二石伝」)
関係ないことに関与しようと口出ししてはいけませんよね、という話だと素直に思って読んではいけません。殺伐としているので子ども閲覧中止。チャイナの歴史や文学の好きな子どもなら免疫があるので大丈夫ですが。

正面から狙われてしまうかも。
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五胡十六国の中に、羯族の建てた後趙という国があります。華北の一部に、319年~351年まで存在しました。この後趙の創設者が石勒さま、石勒の息子の石弘が二代目になるんですが、一年ぐらいで石勒の甥に該たる石虎が国を乗っ取りました。石虎さまの在位は335年から349年まで。後趙はこの石勒さまと石虎さまの在位年数を除くと、5人で3年ぐらいしかやってないので、この二人を後趙の「二石」と申します。お二人ともすごい方々で、いろんなエピソードを残しておられます。
今日は石虎さまの方のお話をいたしましょう。
石虎さまは、はじめ鄭氏を娶り二男を儲け、後に崔氏を得ました。
崔、至相敬持、無児。鄭復生男、崔求養、鄭不許。
崔、至りて相敬持するも、児無し。鄭また男を生じ、崔養わんと求むるも、鄭許さず。
崔夫人と石虎は、たいへんお互いに敬愛しあう関係でしたが、子どもができなかった。そのうち、鄭夫人の方にまた男の子が生まれ、崔夫人はその子を自分の方で育てたい、と頼んだのですが、鄭夫人は承諾しなかった。
という状況下で、その子供が生後数か月で亡くなってしまった。
鄭讒崔謂妾多養胡子。
鄭、崔の「妾、多く胡子を養なわん」と謂うを讒す。
鄭夫人は、(石虎に対し)「崔夫人は、「わたしたくさんえびす男の子どもを育てたいのよ」と言ってたのでございますわ」と讒言した。
「胡子」(えびすの子ども)は、石虎ら異民族を貶めた言い方になっているわけです。
石虎時踞胡床于庭中、大怒、索弓箭。
石虎、時に、庭中において胡床に踞(また)がり、大いに怒り、弓箭を索(もと)む。
石虎さまは、その時、宮廷の中庭で、胡床(簡便な椅子。「床几」)にまたがって座っていた(漢族ならその上に正座する)が、それを聞いてたいへんにお怒りになられ、側近に「弓と矢を持って来い」と命じた。
崔聞欲殺之、徒跣至虎前、曰、公勿枉殺妾、乞聴妾言。
崔、これを殺さんと欲するを聞き、徒跣(とせん)にて虎の前に至り、曰く、「公、妾を枉殺するなかれ、乞う、妾の言を聴け」と。
崔夫人は、石虎が彼女を殺そうとしていると聞いて、大慌てではだしのまま中庭の石虎の前に来て、「あなた、間違ってあたしを殺さないでくださいな。あたしの話を聞いてください」と言った。
案外落ち着いているのを見ますと、おそらくこういう場面がこれまでも何度もあったんだと思います。
虎但言、促還坐、無与卿。
虎、但言う、「促(すみや)かに坐に還れ、卿に与かる無し」と。
石虎は(反論もせずに)ただ言った、「すぐ自分の部屋に帰りなさい。あなたが関与することでは無い」と。
崔便去。
崔、すなわち去る。
そこで、崔夫人は部屋に戻った。
未至、虎于後射之、中腰而覆。
いまだ至らざるに、虎、後よりこれを射、腰に中して覆す。
まだ部屋に戻らないうちに、石虎は後ろから矢を射た。矢はあやまたず崔夫人の腰を貫き、崔は二つ折りになってしまった。
もちろん死にました。
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後趙・王度「二石伝」より。殺伐たる社会が目の前に浮かぶようです。
なお、前燕・田融の「趙書」の方にも同じ事件が記されていますが、こちらによれば、鄭氏に生まれたのは女の子で、百日で死んでしまったそうです。
石虎の前に飛んできた崔夫人は、「二石伝」では何の申し開きもする前に追い返されていますが、「趙書」の方では、
外舎見小子以少唾其容作祟。非薬也。
外舎、小子を少唾を以て見るに、その容祟を作す、と。薬にあらざるなり。
(宮中ではなく)宮外の役所の方で亡くなった女の子に、少し唾をつけてみたところ、その死に顔は「呪い」があったことを暗示していたそうです。毒薬ではありません。
と言ったんだそうです。崔夫人は毒殺を疑われてい(ると思ってい)たようですね。
しかし、この言い訳をしているときに、
後石乃射之、一箭通中而死。
後石すなわちこれを射、一箭通中して死せり。
そのとき、後の方の石(この本は石虎のことを石勒と区別してこう呼んでいる)は、矢を射た。矢は過たず夫人のど真ん中を貫き、死んだ。
と正面からやっつけたと書いてあります。不言実行です。。
人間性なんかくそくらえ!の時代と人物、この無造作さの方がより写実的かも。みなさんのお好みはどちらですか?(いずれも清・湯球編「三十国春秋輯本」所収)
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