不誠有益(まことに益有らざらんや)(「水東日記」)
今日は重陽の節句ですね。うちは旧暦なんであまり気になりませんが。

おれカッパだから濡れても大丈夫!みたいに強気でいると後悔するよ。
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大宦官・沐敬は、明の建文帝(在位1398~1402)に仕えた後、建文帝の叔父・燕王(後の永楽帝)がクーデタ(「靖難の変」)に成功すると、今度はその宮廷で重きを為した人です。
貌魁偉、敢慷慨直言。
貌魁偉、あえて慷慨して直言す。
容貌はデカくて強もて、時に興奮して、皇帝の言動にも正面から反対する人柄であった。
永楽帝は、皇位簒奪のうしろめたさもあって、常に自分の武威を示している必要がある、と思い込んでいました。実際に長いチャイナの歴史の中でも、これだけ前線指揮官として戦上手な「皇帝」は唐の太宗など指折り数えるレベルですが、国家としての大戦略から見ると、対外戦争に国力を傾け過ぎていた嫌いが無いではありません。
何度目かの北征の時、砂漠に踏み入れてから、
逾月不与虜遇、人馬困頓、上意猶未已。諫者皆被譴。
月を逾ゆるも虜と遇せず、人馬困頓するも、上意なおいまだ已まず。諫者みな譴せらる。
すでに一か月を越えたが、モンゴル軍を捕捉することができないままで、兵士も軍馬も疲れ、斃れるものも出始めた。しかし、帝の戦意はいまだ衰えず、軍を還すよう諫言した文官たちはみな叱責され、退けられた。
ある日、沐敬がいつものように難しそうな顔で現れ、
「文官の諫官はもう全員左遷されました。今日はわたしから申し上げずばなりますまい」
と前置きして、もはやこれ以上の征旅は無益であり、軍を引き上げるべきことを諫言した。
永楽帝は、諫言は沐敬の所掌事務でも何でもないので、はじめは困ったような顔をして黙って聞いていたが、沐敬が一度話したあと、
「そうですか、聞こえませんでしたか」
とまた話し始めたので、頭に来たようです。
詈曰、反蛮。
詈りて曰く、「反蛮」と。
「反対ばかりの蛮人めが!」と怒鳴りつけた。
沐敬は廣州か湖南の少数民族の出身だったのでしょう。
すると、沐敬も言い返した。
固不知孰敢反也。
もとより知らず、孰れかあえて反するやを。
「反対? どちらが先に謀反を起こしたんでしたっけ、わしは知りませんけどね!」
皇位簒奪者が何をおっしゃるんですか、というわけだ。これはいけません。
「なんだと!」
上怒、命曳出斬之、敬辞色不為動。
上怒り、命じて曳き出だしてこれを斬らしめんとするも、敬、辞色、ために動かず。
皇帝は激怒し、「こいつを曳きずり出して、テントの外で斬り殺してしまえ!」と侍衛に命じたが、沐敬の方は
「そうですか」
と言葉遣いも顔色も通常どおりであった。
声が上ずったり震えたりひっくり返ったりしないのです。
「御命なれば・・・」
侍衛の士官が沐敬を引き立てようとしましたところ、
「うーん」
永楽帝は、靖難の変のときに、殺し過ぎた。そのことをずっと気に病んでいたところがあります。虐殺大記録を作ってしまいましたが、本来のひとがらは、冷酷非道で猜疑心の塊のようなおやじの洪武帝に比べればずっとまともな人であった。
「待て」
上徐曰、我家養人皆若人、豈不誠有益。
上徐ろに曰く、「我が家の養人みなかくのごとき人ならば、あに誠に益有らざらんや」と。
皇帝は、しばらく考えてから言った。
「(宦官なので朝廷の役人ではなく、皇帝家の私的な家内奴隷の扱いだが)我が帝家で拾い養って家内奴隷にしたやつがみんなこいつのよう(に剛直)なら、本当に有益ではないことがあろうか(有益に決まっているであろう)」
釈之。
これを釈す。
殺すのを取り消した。
この晩、永楽帝は軍の一部の撤退を命じた。さらに数日を経て、殿軍の備えを残して全軍に引き上げを命じる。さすがは帝が手塩にかけた歩騎十万は、整然として撤退を開始し、鳴りを潜めて追撃のチャンスを狙っていた北元のモンゴル騎兵も、ついに手を出すことはできなかった。
これが永楽帝の最後の北征になったのである。
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明・葉盛「水東日記」巻七より。休みの日は強気になって「やってやるぜ」みたいになりますが、宦官・沐敬の行為はあまりに危ないので、ふつうの人は真似してはいけません。台風の時に用水路や田んぼや海岸の様子を見に行くより危険です。
みなさん会社員だとして、前社長一派を追い出した新社長に対して、「どちらが反逆者でしたかのう、わしは覚えておりませんがのう、うっしっし」などと言えますか。「だまれ!」と一発怒鳴られると、「あわわ」と声が上ずったりひっくり返ったりして、「わはは、やってしまえ」とやられるだけですよ。
上の人が「まことに益有らざらんや、こういうやつの方が有益だ」と思ってくれればいいんですが、上の人にはなかなかそうは見えないらしいんですよね・・・。
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