9月30日 年とっても働いて税金払えと

負杖而息(杖を負いて息う)(「孔子家語」)

ほっつき歩いていたので、疲れております。

みんな「愛」のひとびとです。あ、お市は違うか。

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魯の哀公十一年(前484)、斉が魯に攻め込んでまいりました。

どういう理由でそうなったか、とか、その時の戦いがどうであったか、というのは、「春秋左氏伝」をご覧ください。今日は、疲れましたので、左伝の記述の中から、公叔務人(こうしゅく・むじん)という人の行動の部分だけを抜き出した「孔子家語」のダイジェスト版があるので、これを読んでみます。

公叔務人は「公叔」とありますように魯の公室の親類で、名前を公為という人ですが、斉の軍が攻めてきたので、はじめは安全な場所(「保」=県城の砦)で守備につこうとしたのですが、

遇人入保、負杖而息。

国が命じた労働が苦しすぎて、過労しているのであろう。

このひとの姿を見て、

務人泣曰、使之雖病、任之雖重、君子弗能謀、士弗能死、不可也。

我則既言之矣。敢不勉乎。

と。

そこで、

「一緒に死んでくれるね」

「もちろんです、契兄(おにい)さま!」

与其隣嬖童汪錡乗奔敵、死焉。

美しいなあ。大河ドラマではごまかされてましたが、直江兼続の兜飾りがなぜ「愛」の文字であったか。

魯人欲弗殤童汪錡。

すると、国老のじじいが怒った。

能執干戈、以衛社稷、可無殤乎。

この国老は、孔子というもう七十を過ぎたおじいだ。魯の世論を代表し、またその弟子たちが既に要路に採用されてもいて、引退した大夫の扱いであったが国内での影響力は強く、その意見は重んじざるを得なかった。故に、魯国では嬖童をともに廟堂に祀ったのである。

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「孔子家語」曲礼子貢問第四十二より。孔子さまは他のところでもボーイズラブに理解を示していますね。といいますか、古代の学校はメンズクラブですから、互いの信頼感を高めるためには当たり前のことだったのでしょう。
・・・そちらが本題ではなくて、今日は疲れたので杖を負いて息う状態で、何にもしたくないです。明日は日曜日、士大夫ではないので社稷のために仕事しなくていいので助かります。

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