負杖而息(杖を負いて息う)(「孔子家語」)
ほっつき歩いていたので、疲れております。

みんな「愛」のひとびとです。あ、お市は違うか。
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魯の哀公十一年(前484)、斉が魯に攻め込んでまいりました。
どういう理由でそうなったか、とか、その時の戦いがどうであったか、というのは、「春秋左氏伝」をご覧ください。今日は、疲れましたので、左伝の記述の中から、公叔務人(こうしゅく・むじん)という人の行動の部分だけを抜き出した「孔子家語」のダイジェスト版があるので、これを読んでみます。
公叔務人は「公叔」とありますように魯の公室の親類で、名前を公為という人ですが、斉の軍が攻めてきたので、はじめは安全な場所(「保」=県城の砦)で守備につこうとしたのですが、
遇人入保、負杖而息。
人の保に入らんとして、杖を負いて息うに遇えり。
その「保(=砦)」に入ろうとして、疲労して杖を頭の上に持ち上げ(つまり伸びているんです)て休息している人を見かけた。
国が命じた労働が苦しすぎて、過労しているのであろう。
このひとの姿を見て、
務人泣曰、使之雖病、任之雖重、君子弗能謀、士弗能死、不可也。
務人泣いて曰く、「これを使うに病ましむるといえども、これに任ずるに重しといえども、君子は能く謀ごとをせず、士はよく死せざれば、不可なり。
公叔務人さまは、泣いて言った。
「国民を働かせてこれほど弱らせてしまっている。また、税金をとるのもあまり重すぎる。そのような国であっても、(国民はいいんだけど)国の重臣である君子は改善のためにいろいろと意見を述べて責任を分担するのが義務であり、国の職務を掌っている士は、危急の時には命をかけるのが義務である。
我則既言之矣。敢不勉乎。
我すなわち既にこれを言えり。あえて勉めざらんや。
わたしは、いつもそう言っていたのだ。ここで努力しないわけにはいかないのだ」
と。
そこで、
「一緒に死んでくれるね」
「もちろんです、契兄(おにい)さま!」
与其隣嬖童汪錡乗奔敵、死焉。
その隣の嬖童・汪錡と乗じて、敵に奔し、死せり。
隣に住んでいる愛人の少年・汪錡くんとともに戦車に乗って斉の大軍の中に突っ込み、二人とも戦死した。
美しいなあ。大河ドラマではごまかされてましたが、直江兼続の兜飾りがなぜ「愛」の文字であったか。
魯人欲弗殤童汪錡。
魯ひと、童の汪錡を殤せざらんと欲す。
魯の政府は、愛人関係にあった少年・汪錡については、軍事上の資格も公叔務人との関係もはっきりしないため、国葬の対象から外そうとした。
すると、国老のじじいが怒った。
能執干戈、以衛社稷、可無殤乎。
よく干戈を執りて、以て社稷を衛るに、殤すること無かるべけんや。
「盾と戈を手にして社稷を守ろうと勤めた者が、国葬の対象にならないことがあるのじゃろうか!?」
この国老は、孔子というもう七十を過ぎたおじいだ。魯の世論を代表し、またその弟子たちが既に要路に採用されてもいて、引退した大夫の扱いであったが国内での影響力は強く、その意見は重んじざるを得なかった。故に、魯国では嬖童をともに廟堂に祀ったのである。
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「孔子家語」曲礼子貢問第四十二より。孔子さまは他のところでもボーイズラブに理解を示していますね。といいますか、古代の学校はメンズクラブですから、互いの信頼感を高めるためには当たり前のことだったのでしょう。
・・・そちらが本題ではなくて、今日は疲れたので杖を負いて息う状態で、何にもしたくないです。明日は日曜日、士大夫ではないので社稷のために仕事しなくていいので助かります。