香巌普済(香巌に普く済う)(「不下帯編」)
何をすればいいんでしょうね。

背中に火がついたように、夢中で何かをなければいけないのでは?
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唐代の終わりころ、
一山寺有病僧自題于戸。
一山寺に病僧有りて、自ら戸に題す。
ある山寺に病気の坊主がいて、部屋の扉にこんなことを書きつけていた。
曰く、
枕有思郷涙、門無問疾人。
枕には思郷の涙有るも、門には疾を問うの人無かりき。
故郷を想って流す涙が染み込んだ枕はあるが、
病状を尋ねる人が訪れる門はない。誰も来ないのじゃ。
「あわれなことですなあ」
適部使者至、憐療治之。
たまたま部使者至り、憐れみてこれを療治す。
この山寺に、ちょうど地方を視察する使者が宿泊して、その扉の文字をみて憐憫の情を起こし、病気見舞いをして、いくばくかの差し入れをしてやった。
後、この使者が出世して、
言于朝、遂命天下寺院置延寿寮、専養病僧也。
朝に言い、遂に天下の寺院に命じて「延寿寮」を置き、専ら病僧を養わしむ。
朝廷で発言して(政府の議論を統一し)、ついにチャイナ中のお寺に命じて、「寿命延ばし小屋」を建てさせて、病気の僧侶を専門に療養させることにしたのである。
この使者の名前が伝わっていないのが残念だが、たいへんな功徳ですごい天国に行ったであろうと申せましょう。
今蘇州之陳善人、本楽工。
今の蘇州の陳善人は、もと楽工なり。
現代では、蘇州の陳善人さまが有名である。彼はもともとは楽師であった。
「善人」というのはあだ名で、本名が陳鑑雄。「楽工」は人びとから賤視される身分ですが、彼は、
鬻歌京師、蓄纏頭金半千帰、首創普済院于虎邱之野、救療無力病人僧衆、及広行一切善事。
歌を京師に鬻(ひさ)ぎて、纏頭金半千を蓄えて帰り、普済院を虎邱の野に首創して、無力病人・僧衆を救療し、広く一切善事を行うに及べり。
北京で歌うたいをし、その日暮らしの中でおひねりを五百金貯えて、蘇州に帰ってきた。その金を使って「普済院」を郊外の虎邱に創立して、生活のあての無い病気の坊主や一般人を治療し、さらに広くあらゆる善事を行ったのである。
彼の活動が注目されるようになると、
富室助之者甚夥、遂成大功徳。賜宸翰曰香巌普済四字。
富室のこれを助くる者甚だ夥しく、遂に大功徳を成せり。宸翰を賜いて曰く、「香巌に普(あまね)く済(すく)う」四字なり。
お金持ちの方々で協力を惜しまない者が夥しく現れ、とうとうその行動は大成功して、たいへんな功徳を積んだのであった。
やがて、時の帝から直筆の額をいただいた。漢字だと四文字で、
香巌山では、人類すべてを救済中!
というのであった。
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清・金埴「不下帯編」巻四より。毎日、少しはガマンしているとはいえおそらく他人より多くのモノを食っています。おなかを空かせている子どもや困っている家庭も多いのに。「自分にできることを」ではなく、もう「限界突破」で何かしないといけないご時世なのではないか、と思われます。
ただし、上記の文中「現代」というのは、清の康煕年間(1662~1722)のこと、康煕帝から直筆の額をもらったのが康煕五十五年(1716)だそうですので、もう300年以上前のことです。暴れん坊将軍のころだ。そんな昔のことを参考にしなくてもいいかも知れません。現代においては、坐して待っていれば生成AIが何とかしてくれるかも。
明日暑いみたいですよ。もう体力切れなのに。