汗下流背(汗下りて背に流る)(「啁啾漫記」)
単に暑かっただけかも知れませんが。

お魔女のクスリで自分が変えられればなあ・・・。
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戊戌政変(1898)の後、光緒帝は西太后によって軟禁状態になり、臣下との連絡も自由に出来ず、つねに太后の監視下に置かれておられました。西太后という人も情の深い人ですから、この聡明な甥を決して憎んではいなかった側面もありますが、光緒帝はほとんど孤立してしまい、とにかくすごい緊張した関係だったみたいです。
その後、義和団の変(1900)の際、西太后は「扶清滅洋」を唱える義和団とともに西洋諸国(日本を含む)と戦おうとして宣戦布告します。しかし、義和団が連合軍に負けると、大臣らに責任を投げ出して北京を逃げ出し、長安に避難してしまいました。光緒帝も連れて行かれたので、主役は西太后なんですが、これを「光緒西狩」といいます。
光緒帝が西の方に狩に行った―――という意味です。
帝はもともと西太后の外交政策に反対だったようですが、宮廷内には誰も帝に意見を聴く者も無く、
恒思援各省督撫以自助。
恒に各省督撫を援(ひ)きて以て自助せんことを思えり。
いつも、各地の総督たちを頼んで、彼らが自分を助けてくれないかと思っていた。
その立場からすると、地方への巡狩は願ってもないチャンスであった。それに、長安の督撫・某は、もともと光緒帝が権限を持っていた時期に重用された人物で、勤王の意が篤いと言われておりました。
一日招某入、叩頭畢、帝甫有言。
一日、某を招入し、叩頭畢(おわ)りて、帝、はじめて言有らんとす。
ある日、帝は、「いささか相談ごとがある」として、この督撫・某を招いた。某も何事かを期して参内したのである。帝との会見の最初に必要な「三跪九叩頭」の挨拶を終え、ようやく帝が何かを告げようと「朕のために兵を挙げ・・・」と口を開いた瞬間―――
太后適至。
太后たまたま至れり。
西太后が偶然そこに入ってきた。
帝色変、某亦汗下流背。乃乱以他語而罷。
帝、色変じ、某もまた汗下りて背に流る。すなわち乱は他語を以て罷めたり。
帝は一瞬にして顔色を変え、某の方もその場の緊張感に、汗が背中を流れ落ちるのを感じたそうである。その後は、
「・・・んきであったようじゃのう」
と他の言葉でごまかして、何も起こらなかった。
太后未之審也。
太后、いまだ審らかにせざるなり。
太后もそれ以上、何も詰めることはなかった。
西太后は天然のところがありますから、本当に気付いていなかったと思います。
このころ、
帝之衣履、敝垢。一日、内侍以新制袜進呈、式劣、帝不悦。
帝の衣履、敝して垢す。一日、内侍以て新たに袜(ばつ)を制して進呈するも、式劣り、帝悦ばず。
帝の服や履き物は破れ、垢汚れさえ起こしていた。そこで、ある日、宮中係が新しい靴下を作って持ってきてくれた。しかし、できが悪く、帝は不満そうであった。
有頃、太后至、問、袜佳耶。
有頃、太后至り、問う、「袜、佳なりや」と。
しばらくして、太后がやってきて、訊いた。
「くつ下は、よかったかえ?」
帝曰然。
帝曰く、「然り」。
帝は答えた。「はい」
太后又曰、差長否。
太后また曰く、「やや長きや否や」。
太后はまたおっしゃった、「少し長かったかねえ」
帝曰然。
帝曰く、「然り」。
帝は答えた。「はい」
涙がにじんでまいりますね。
まだほかにも当時のエピソードが書かれているのですが、帝のお気持ちを思えば心がツラくなってきましたので、ここまでと致します。
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民国・無名氏「啁啾漫記」より。「啁」(ちゅう)も「啾」(しゅう)もすすり泣く声ですから、題名は「ぐすん・くすん、だらだら日記」みたいな意味になるかと思いますが、清末のどうしようもない政治・社会のエピソードが書かれて「清代野史叢書」の中に入っている本です。背中に汗が流れる状態、自分の過去のいろんな場面をフラッシュバック的に思い出して、ほんとに同情してしまいました。