未知是否(いまだ是なるや否やを知らず)(「水東日記」)
主君や上司から、「お彼岸が春にある年と秋にある年があるが、どうやって決まるのか」と訊かれたら、みなさん、どう答えますか。

現世では、ほんとのことを言った場合の方が舌抜かれる確率は高いのでは?
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明の時代のことです。大学の責任者であった夏仲昭どのが、かつて文敏公・楊栄さまに親しく聞いた話だそうですが、
吾見人臣以伉直受禍者、毎深惜之。事人主自有体、進諫貴有方。
吾、人臣の伉直を以て禍を受くる者を見るに、つねに深くこれを惜しむ。人主に事(つか)うるには自ずから体有り、進諫は有方を貴ぶ。
わしは、臣下の者が真正直に皇帝の判断に抵抗して罪に陥るのを見るたびに、いつも深く残念だと思うのじゃ。主君に仕えるにはおのずとやり方があるのであり、特に諫言を申し上げる時には(聞き入れられるように)言い方が大切なのである。
―――そうなんですか。
譬若侍上読千文、上云、天地玄紅。
譬えば、もし上の「千文」を読むに侍して、上、「天地玄紅」と云うあり。
たとえば、もし、おまえさんが帝が「千字文」をお読みになるのに近侍していたとして、帝が「天地、玄(あおぐろ)く紅なり」と言い出したらどうする?
「千字文」は、南朝・梁の武帝(在位502~549)が周興嗣に命じて作らせた、一字の重複もなく綴られた千文字からなる四言二百五十句から成る詩で、知識人の子どもが文字を覚えるために暗記しました。つまり「いろは歌」の漢字版のすごい長いやつ、だと思っていただければいいと思います。
その「千字文」の最初は、
天地玄黄、宇宙洪荒。
天地は玄黄にして、宇宙は洪荒たり。
天と地は、玄(あおぐろ)い(←空の色)と黄色(←土の色)であり、
宇と宙(空間と時間)は、広大ではるかである。
からはじまるのですが、それを帝が、
天地玄紅「天地、玄(あおぐろ)く紅なり」
とおっしゃったら、どうすればいいのか。
「わはは、帝よ、それは間違っておりますぞ、おまえさんはオロカだなあ。人の上に立つ価値はありませんなあ」
と真っすぐな心の人は言ってしまうかも知れませんが、
未可遽言也。安知不以嘗我、安知上主意所自云何、安知玄黄不可為玄紅。
いまだ遽(にわ)かには言うべからざるなり。いずくんぞ知らん、以て我を嘗(こころ)みざるやを、いずくんぞ知らん、上の主意のよる所の云何(いかが)なる、いずんぞ知らん、玄黄は玄紅と為すべからざるやを。
すぐに答えてはいかんぞ。帝はもしかしたらわしを試そうとしているのかも知れんし、帝がどういう根拠に基づいてそう言っているのかもわからんし、もしかしたら「玄黄」の句は「玄紅」でもいいのかも知れない。
遽言之、無益也。
遽かにこれを言うは、益無きなり。
すぐに何かの答えを口にするのは、なんのいいこともない。
俟其至再至三、或有所詢問、則応之曰、臣幼読千文、見書本是天地玄黄、未知是否。
その再に至り三に至を俟ち、あるいは詢問するところ有れば、すなわちこれに応じて曰く、「臣、幼くして千文を読むに、見書の本、これ「天地玄黄」なり、いまだ知らず、是なるや否やを」と。
帝が二回、三回と同じことをおっしゃった場合や、あるいは帝の方から「これでいいんだっけ」と諮問された場合には、はじめてお答え申すべきであるが、その時もこういうのじゃ。
「やつがれは子どものころに「千字文」を読みましたが、わたしの読んだ本では確か「天地、玄にして黄なり」と書いてありました。だいぶん年数も経ちましたが、それが正しかったかどうかよくわかりません」
そして、最後に付け加えるのじゃ。
不審明者以為如何。
審らかにせず、明者以て如何と為すやを。
「この問題に詳しい人がどう判断するか、わたしにはわかりませぬ」
こういえば、帝は「この問題に詳しい人」にご質問になることであろう。わしは帝に「おまえ、間違っているぜ、わははは」と言わなくても済むわけだ、うっしっしー。
―――と、おっしゃっていたんじゃよ。お前たちもよくよく理解しておくように。
以上、大学に行っていたころ、夏仲昭どのから、親しく聞いたことである。
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明・葉盛「水東日記」巻五より。なるほどな、主君や上司が間違ったことをしていて、「これでいいんだっけ?」と訊いてきた場合の正解は、「どちらが正しくてどちらが間違っているか、いまだにわかりません」と言えばいいんですな。くっくっく・・・。
当時の「大学」は何かあると諫言書を提出して、一部からは喝采を受けますが、当路者や宦官勢力やその奥の皇帝ご自身のお怒りに触れて、拷問、虐殺、死刑が毎年のように行われておりましたので、慎重に生きるように、と夏仲昭教授が教えてくれたことなのでしょう。