9月14日 いつかはわかる日がくるのだろうか

頭頭到来(頭頭(ずず)到来す)(「趙州録」)

論理的には理解できないことばかりの世の中です。ひとつひとつ地道にやっていくしかないんですわ。

病院送りの心は慈悲ごころニャ。

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久しぶりで和尚に教えてもらいます。

頭頭到来時如何。

「頭・頭」はものが頭だけ出して続けてくる様子を言っています。

物事が一つ一つ、つながっているのかそれぞれは関係ないのかわかりませんが、向こうからやってくる。かっこよくいえば「世界が次々と顕然してくる」んです。それに対していろんな感情を持ったり、思考したりしてしまいますが、それを一つ一つ解決していく、それが真の生き方といってよろしいでしょうか。

人生には特別な悟りなどなく、現実の問題への対処の積み重ねをしていくだけなのですから・・・。

和尚曰く、

猶較老僧百歩。

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如何是和尚家風。

老僧自小出家、抖擻破活計。

「抖擻」はサンスクリットの「ドゥータ」です。「頭陀」(ずだ)ともいい、払いのける、特に贅沢や満ち足りた生活への執着などを払いのけて修行に進むことをいいます。そのような修行者が持っている袋が「頭陀袋」。最低の必要物しか入りません。

お伝えできるような家風はございません。

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扁鵲医王、為什麼有病。

今現在その人が病気だ、というのではなく、その人が今いないなら病気になって死んだからでしょう、ということを前提として、「どうして病気になったのか」との質問です。

そんな難しいこと考えるなよ、と言いたいかも知れませんが、これが仏教的思考法でございますから、つきあってあげなければなりません。

和尚曰く、

扁鵲医王、不離牀枕。

仏さまでも病気になる。何故なら、衆生が病気になるから、仏さまもその苦を共感するために病気にならざるを得ないのだ。医術の王者も衆生を救済しようとする慈悲の心があるが故に、ベッドの上で苦しむ病人になるのだ。

何言っているかわからないかも知れませんが、この論理が飛躍したようなのがこれも仏教的思考法というものです。なにしろ、仏さまとか医王とか、現実にはいるはずのない者も、宇宙の無限の時間と空間の中には必ずいたはずなので、いた、いる、と考えることから始まるんです。

又云、一滴甘露、普潤大千。

「甘露」は「アムリタ」。古代インドから伝わる秘薬で、それを一滴飲めば永遠の生命を得ることができるほどのすごい液体。仏の教えの譬喩にも使われます。ここは譬喩なのか、何なのか、考えてみなはれや。

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唐・趙州従諗「趙州録」巻中より。「わけがわからん。どうしてわかるように言わないのだ」と怒ってはいけません。通常の論理では理解できそうにないこと(「公案」)を考えて考えて考え抜いているうちに、ある日突然、「ピコーン! わかった!」になるはずなので、そうなれるようにがんばれ、というのが「看話禅」という方法論なので、「こうなんですよ」と論理的にわかるような話ではないんです。
かつて、

という解き得るとは思えない課題を考え続け、ある時突然、「ピコーン! 敗北こそ勝利なり!」と悟りを開いた人がいた・・・ようなものです。

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