不終其位(その位を終えず)(「茶余客語」)
なんとなくエンギでもない方に行くような気もしないでもない・・・ような気もします。

五人もいるのよ!
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組閣したから、この先を占え、と。
ふむ。
ところで、明・清代には「宰相」とか「閣僚」という職名はありませんでして、「大学士」という称号を持つ人が皇帝の顧問に与かるという建前で、政務の取りまとめをして皇帝に奏上することになっており、実質的に行政各部の業務を取りしきる閣僚の業務を行っていたのでございます。
明代大学士帯殿閣銜名、倶以次昇遷、由東閣、逓昇至中極、亦有超授一階二階者。
明代の大学士は殿閣の銜名を帯び、ともに次を以て昇遷し、東閣より逓昇して中極に至り、また一階二階を超授さるる者有り。
明の時代の「大学士」は、「殿」「閣」の名前を帯びておりまして、どなたも大学士となった後、だんだんに昇進して「殿」「閣」を移っていく、という仕組みになっておった。最初は「東閣」で、だんだん昇進して「中極殿」まで行く。中には、一階級二階級を特進される方もあられたのでございます。
この「東閣」とか「中極殿」とか、あとでほかにも「閣」や「殿」が出てきますが、これらが宮中の奥深いところにあるというので、まとめて「内閣」と呼ばれます。この殿閣の銜名(かんめい。段階名、というぐらいの意味です)を帯びている大学士が「内閣大学士」でして、制度が違うので単純には比較できませんが、閣議メンバー、あるいは宰相・副宰相(複数いてもよく、その場合はそれぞれが閣議を構成できる)に該当します。
惟文華不軽授、終明之世,僅二人耳。
これ、文華のみは軽授せず、明の世を終うるまで、わずかに二人のみ。
ただ、「文華殿」の銜名だけは軽々しくは授けられないことになっておって、明の世が終わるまでにここまで行ったひとはたった二人だけであった。
我が清朝に入りましてからは、
初不以此分軒輊、亦無累遷之制。
初めてこれを以ては軒輊を分けず、また累遷の制無し。
「軒」(けん)は本来、前が低く後ろが高い車、「輊」(ち)は逆に前が高く後ろが低くなった車で、「軒輊」と並べて「高低」の意味に使われます。
明代の制度をやめて、銜名を以て高い・低いを分けず、まただんだん移っていく、という仕組みも無くした。
雍正年間に張文和公が文華殿を授けられた後、保和殿に改められたことがあったが、
後此多以初入之銜為定、後不復再更。
これより後は、多く初入の銜を以て定と為し、後また再更せず。
それ以降は、ほぼどなたも、最初に入閣した殿閣の名前をそのままにして、後で改めるということはしなくなった。
今(乾隆年間)の宰相である劉延清さまは、
拝相十年、猶帯東閣。
相を拝してより十年、なお東閣を帯ぶ。
宰相になってからもう十年になられるが、今でも最初に入閣したときのままの「東閣」大学士である。
明代であれば第一段階のままです。しかるに、劉さまよりあとに入閣した方々は、
尹継善、高晋 →文華殿大学士
阿桂、温福 →武英殿大学士
陳宏謀、劉論 →文淵閣大学士
という名を帯びておられます。
其行走班次、不以殿閣為叙。
その行走の班次は、殿閣を以て叙と為さざるなり。
みなさまの先任・後任の違いは、殿閣の名前では決めてないのである。
お一人お一人の格付けには使われてないのですが、ただ場所や大きさをかんがみると、建物としては、
本朝殿閣首中和、次保和、次文華、次武英、次文淵、次東閣。
本朝の殿閣、中和を首とし、次いで保和、次いで文華、次いで武英、次いで文淵、次いで東閣なり。
我が清朝の殿閣の格付けは、中和殿>保和殿>文華殿>武英殿>文淵閣>東閣となっているようである。
ところで、近年、楊応琚、楊廷璋のお二人(ともに楊姓だが同族ではないとのこと)は、
皆授体仁閣。前此未之有。
みな「体仁閣」を授けらる。これより前にいまだこれ有らざるなり。
お二人とも「体仁閣」大学士の銜名を授けられた。この閣名は、これまで先例になかったものである。
そして、
二楊皆不終其位。
二楊、みなその位を終えず。
二人の楊さまは、どちらも大学士の地位のままでは引退できなかった(。つまり、勇退や死去の前に左遷されてしまわれた)。
先例が無い地位につくのはどうも吉例ではないようでございますなあ・・・。くっくっく。
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清・阮葵生「茶余客語」巻一より。え? 現代は明や清ではない? なんと! 今日組閣されたのはわが国の現代の内閣だったのですね。それではこの先例は使えません。ということは・・・、あわわ、国民のみなさままで巻き込まれて吉例又は不吉なことになるかも知れず、しかもこのわしの占を以てしては、もはや予測が立ちませんぞ!!!!!!!!!