託事警世(事に託して世を警(いま)しむ)(「水東日記」)
思ったとおりにならないのが、世の中でございます。

今日は国際ネコの日、88を横にするとネコの目になる、のだニャー。ネコを完全部屋飼いしないのはネコを愛していない証拠、の時代、おれのようニャ辺境の野外ネコのことニャんか、みんニャ忘れてゴマ食ったりフンドシ脱いだりしてるんだろうニャー。
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「卞・洛」といえば、卞水の流れる開封と洛水の流れる洛陽周辺、今の河南のあたり、ということになりますが、その地方の
深山中多乱禽、其声多類人言。
深山中に乱禽多く、その声多く人言に類す。
深い山中には名も知られぬ鳥が多くいて、その鳴き声は人間の言葉によく似ているのだそうだ。
ある鳥はこう鳴くそうである。
児回来、嬢家炒麻誰知来。
あるほいらい・・・、とか読み始めたのですが肝冷斎は現代中国音はもちろん、明代の河南方言なんかわかりませんので、普通に漢字音読みして許してください。
ジカイライ、ジョウカシャマスイチライ
と鳴くんだそうです。
児、回り来たれ、嬢家麻を炒めて誰か来たるを知らん。
ぼっちゃん、帰ってきておくれ、わたしの家ではゴマを炒めて、誰が来るかと待っているのよ。
―――これには悲しい謂われがあるのでございます。
と、
土人以為昔人有継母、偏愛己子者。
土人、以て昔人に継母の、己の子を偏愛する者有りと為す。
地元のやつが言いますには、「むかしむかし、あるところに、後添いに入った女がおりましたのじゃ。この女、先妻の子よりも自分の子を偏愛していた・・・」。
あるとき、にやりと笑いまして、先妻の子と自分の子を呼び、
以生麻子授己子、熟麻子授前妻之子、嘱之曰、植麻生者得帰家。
生麻子を以て己の子に授け、熟麻子を前妻の子に授け、これに嘱して曰く、麻を植えて生ぜし者、家に帰るを得、と。
そのままのゴマの入った袋を自分の子に渡し、煮込んだゴマの入った袋を先妻の子に渡して、二人にこう言った。
「山の中の畑にゴマを植えて来ておくれ。ゴマが生えたらうちに帰っていいよ。生えるまでは帰ってきてはいけないんだからね!」
と。
「あいでっちゅ」「でっちゅ」
二子不知其謀、中途幼子嗜食熟麻子、遂彼此相易。
二子その謀を知らず、中途幼子熟麻子を嗜食し、遂に彼此相易えたり。
二人の子供は継母のたくらみ事などわかりません。畑に行く途中、小さい方の子が自分の袋の中のゴマを食べたが、苦い味がしました。しかし、お兄さんの持っている煮えたゴマを食べてみたらじんわりと味が染みだして、美味しかった。そこで、弟はお兄さんと袋を取り換えてもらった。
こうして、
其己子誤植熟麻子、不得帰。母思之至死、化為此鳥、呼其子。
その己の子、誤ちて熟麻子を植え、帰るを得ずなりき。母これを想いて死に至り、化してこの鳥と為りて、その子を呼ぶ。
継母の実の子の方が煮えたゴマを植えることになってしまい、このゴマは植えてももう芽が出ませんから、いつまで経っても帰ってこれなくなってしまった。
ああ!
その母親が実の子のことを思い詰めてとうとう死んでしまい、死んでこの鳥になってしまって、その子に、帰って来い、と呼び掛けて続けているのだ・・・。
「へー、そうなんですか、ふんふん」
其他類此者多不可勝数、要皆好事者託事警世之意。
その他これに類するもの多く、数うるに勝(た)うべからず、要するにみな好事者の事に託して世を警(いまし)むるなり。
これ以外にもこれと同様な伝説が多く、数え切ろうとして数えきれないぐらいである。つまるところ、これらは面白がり屋たちが物語をでっちあげて、それによって世間に教訓を垂れているのである。
なんだ、そうなんだ。
亦如所謂提葫蘆、脱布袴之類耳。
またいわゆる「提葫蘆」(テイコロ)、「脱布袴」(ダッフコ)の類の如きのみ。
これらは、鳥の鳴き声の聞き取りとしてよく言われる「ヒョウタンサゲテ」(世俗を逃れろ)とか、「フンドシヌゲー」(???)などと同じようなものだ。
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明・葉盛「水東日記」巻二十八より。漢文にしては人の心に素直なことが書いてありますね。
思ったとおりになるはすがない、が、ジカイライ・・・の警(いま)しめなのでしょうが、フンドシヌゲ、がどういう事に託して世を警しめているのか、よく調べてみなければなりません。