去不以罪(去るに罪を以てせず)(「東軒筆録」)
明日は立秋、南関東も猛暑日から脱出して涼しくなるらしいので、みなさんは元気になってくると思います。だが、わしはもう今日不可逆的に熱中したので、明日からもずっともうダメです。涼しくなるのがもう一日早ければなあ、残念だなあ。

食えるもんなら食ってみろ!と開き直っていたら食べるやついたでナマ。毒を持つなど徹底的にやるべきだったでナマ。
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北宋・神宗皇帝(在位1067~85)の煕寧七年(1074)、帝とともに新法改革を進めてきた荊公・王安石が一区切りついたところで宰相を辞め、吏部尚書の称号を持ったまま金陵(南京)の太守として赴任した。
その際、
薦呂恵卿為参政而去。
呂恵卿を薦めて参政と為して去れり。
自分の後任の宰相には、呂恵卿を推薦して行った。
呂恵卿はおそろしく怜悧な男であった。これまで王安石の片腕として新法派の切り札的な存在であったが、あまりに冷酷なので各方面に敵があり、王安石自身も彼との権力争いに嫌気がさしたのが、宰相辞任の本当の理由であろうとウワサされていた。
(老いぼれは引き取ってもらわねばならん)
呂恵卿は、
得君怙権、慮荊公復進。
君を得て権を怙(たの)むに、荊公のまた進めらるを慮る。
皇帝の信頼をつなぎ留め、権力を保持するために、王安石がまた宰相に返り咲かれるのを防がねばならない、と考えた。
徹底的にやってしまわねばなりません。しかし、建前上は自ら属する新法党の先輩であり、その推薦を受けて宰相になったことになっているので、罪をでっちあげて処分してしまうわけにもいかない。
そこで、
因郊祀、薦荊公為節度使平章事。
郊祀に因りて、荊公を薦めて節度使・平章事と為さんとす。
その年の歳祭りの恩赦の起案に際して、王安石を節度使兼平章事に進める人事を紛れ込ませた。
節度使は、地方の軍政両権を掌握する官として、唐代から五代にかけて大きな権力を握っていましたが、宋代になってもう百年以上、この時期の節度使は実質的な役職ではなくなっていた。平章事は唐代以来宰相が帯びる職名の一つですが、それだけでは何の実権も無い。地位は高いが全くの名誉職に祭り上げてしまおうというわけである。
方進札、上察見其情、遽問曰、王安石去不以罪。
まさに進札するに、上その情を察見し、遽(にわ)かに問いて曰く、「王安石、去るは罪を以てせず」と。
その決裁文書を上覧したとき、帝はその事情を理解したらしく、あわてて言った、
「王安石は、罪を得て辞めたのではないぞ」
自分で辞職したのだ。そのうちまたやることが出来たら戻ってくるだろう。
何故用赦復官。
何故ぞ、赦を用いて官を復する。
「なぜ、恩赦の中で元の地位の平章事に戻してやらなけらばならないのだ?」
呂恵卿は答えることができなかった。
この人事はお流れになった。
明年、復召荊公秉政。
明年、また荊公を召して政を秉(と)らしむ。
翌年、神宗皇帝は、また王安石を呼び出して、宰相に任命した。
王安石はまた宰相の地位に就き、まず呂恵卿を弾劾して地方に追い出した。
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宋・魏泰「東軒筆録」巻五より。暑いからあんまりやる気出ませんが、やっつけるなら徹底的にやっつけないと戻ってくるやつ多いですね。アリも蚊も追い払ったと思ったらすぐ戻ってくる。「やる気」は戻ってきません。初夏にはあったかも知れないのですが、徹底的にやられています。