再犯者処死(再犯する者は死に処す)(「典故紀聞」)
一回で十分でしょう。

肝冷斎批判強まる。どこかに逃亡しなければ。
范蠡のように名を変えて五湖に浮かぶのが得策か。うっしっし。
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明代は「自宮」と申しまして、刑罰によるのではなく自分で「宮」すなわち生殖器を切断して、宦官になろうとする者がたくさんおりました。それぐらい実入りのいい職業だったのです。
特に成化年間(1465~87)の前半にその風習が最も盛んとなった。
成化十年(1474)十二月、
有自宮者五十余人、日赴礼部喧訴求進。
自宮者五十余人有りて、日に礼部に赴きて喧訴して進むを求む。
自分で切っちゃったやつが五十数人、毎日、官吏の採用を掌る礼部にやってきて、採用を求めて大騒ぎしていた。
尚書鄒幹以聞、命錦衣衛執之、枷項於礼部前、并各大市街示衆。
尚書・鄒幹以て聞し、錦衣衛に命じてこれを執らえ、礼部の前に項を枷し、并せて各大市街にて衆に示す。
政府高官の鄒幹がこのことを皇帝に報告し、皇帝の私警察である錦衣衛に命じて彼らを逮捕させ、首枷をつけて礼部の前と、さらに北京市内の各市場でさらしものにした。
自分で切った不届き者、として、恥をかかせたのです。
なお「錦衣衛」は宮中にあった役所で、手続き類無しで人を逮捕、拷問する権限を持ち、明代に大きな力を揮った機関ですが、構成員は宦官であった。
さらし者にされた自宮者たちを見て、いまさらながら「なるほど、その手を使えばいい仕事に就職できるぞ」と思った人も多かったようである。
翌成化十一年(1175)冬、この年は、
有自宮聚至四五百人、鬨嚷求収用。
自宮聚まること四五百人に至る有りて、鬨嚷(どうじょう)して収用を求めたり。
自分で切ったやつが四百~五百人集まってきて、鬨の声を挙げたり喚き散らしたりして採用を求めた。
「今年は十倍になった?」
と、周囲(ほとんどは宦官)からお聴きになった皇帝は、お怒りになって、おっしゃった。
此輩逆天悖理、自絶其類。且又群聚喧擾、宜治以重罪。
この輩、天に逆らい理に悖り、自らその類と絶す。かつまた、群聚して喧擾す、よろしく重罪を以て治すべし。
「この者どもは、天命による男性性に逆らい、子孫を遺すという道理に背を向け、自分で同じ人間仲間から絶好してしまったのだ。その上に、群れ集まって大騒ぎしおるとは! 重い罪によって罰する必要がある。
しかしながら、
但遇赦宥、錦衣衛其執而杖之、人各五十。押送戸部、如例編発海戸当差。
ただし赦宥に遇い、錦衣衛それ執りてこれを杖すること、人おのおの五十せよ。戸部に押送して、例えば海戸を編発せるが如くにして差すべし。
今回は恩赦の時節であることにかんがみ、罪を軽くして、錦衣衛(彼ら自身が宦官なのですが)はそいつらを捕らえて一人当たり杖で五十回殴ることにせよ。そのあと、戸籍を掌る戸部に送致して、(この間、政府に逆らった)海洋民たちを処分したと同様に、戸籍を編成して差別化しておけ。
是後有再犯者、本身処死、全家発辺遠充軍。
この後再犯する者有れば、本身は死に処し、全家は辺遠に発して軍に充てよ。
今後、またやるやつがおったら、本人は死刑にし、一族は辺境に行かせて、軍務に従事させよ。
以上のことを、
礼部移文天下禁約。
礼部移文して天下に禁約せしめよ。
礼部から、国内全地域で禁止するよう通知せよ」
ははー。
とはいうものの、もう一回やったら死刑!と言われても、「自宮」はもう一回できません。これは集まって騒ぐことが禁止された、と考えるべきなのでしょう。これ以降、年末に集まって職を求めることは無くなりましたが、「自宮」が無くなったわけではなく、コネや推薦で宦官になる方法が主流になるのでございます。どんどん忙しくなる錦衣衛だけでも、毎年多数の宦官職員の採用が必要だったのでございますゆえに。
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明・余継登「典故紀聞」巻十五より。明は実に変な時代だったんだなあ、と思ってしまい・・・そうになりますが、この話題はいろいろ難しい論点を含んでおりそうです。今は話題にしない方がいいので、よし、この漬物樽に入れて蓋をして知らん顔しておこうっと・・・。
―――待て。肝冷斎、この記述は、多様性社会の発展に疑問ないし反感を持っている証拠ではないか。許さんぞ!
これはいかん。「めっそうもござらぬ。そんなことはありませんぞ」と強く言っても拷問などで自白させられるかも知れません。錦〇衛の目をくらますため、明日は姓名を替えてどこかへ旅立つことにします。休暇届け出したし。「自宮」は「清宮」に似ているような感じも。