8月31日 もうイヤになってきたのだ

再犯者処死(再犯する者は死に処す)(「典故紀聞」)

一回で十分でしょう。

肝冷斎批判強まる。どこかに逃亡しなければ。
范蠡のように名を変えて五湖に浮かぶのが得策か。うっしっし。

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明代は「自宮」と申しまして、刑罰によるのではなく自分で「宮」すなわち生殖器を切断して、宦官になろうとする者がたくさんおりました。それぐらい実入りのいい職業だったのです。

特に成化年間(1465~87)の前半にその風習が最も盛んとなった。

成化十年(1474)十二月、

有自宮者五十余人、日赴礼部喧訴求進。

尚書鄒幹以聞、命錦衣衛執之、枷項於礼部前、并各大市街示衆。

自分で切った不届き者、として、恥をかかせたのです。

なお「錦衣衛」は宮中にあった役所で、手続き類無しで人を逮捕、拷問する権限を持ち、明代に大きな力を揮った機関ですが、構成員は宦官であった。

さらし者にされた自宮者たちを見て、いまさらながら「なるほど、その手を使えばいい仕事に就職できるぞ」と思った人も多かったようである。

翌成化十一年(1175)冬、この年は、

有自宮聚至四五百人、鬨嚷求収用。

「今年は十倍になった?」

と、周囲(ほとんどは宦官)からお聴きになった皇帝は、お怒りになって、おっしゃった。

此輩逆天悖理、自絶其類。且又群聚喧擾、宜治以重罪。

しかしながら、

但遇赦宥、錦衣衛其執而杖之、人各五十。押送戸部、如例編発海戸当差。

是後有再犯者、本身処死、全家発辺遠充軍。

以上のことを、

礼部移文天下禁約。

ははー。

とはいうものの、もう一回やったら死刑!と言われても、「自宮」はもう一回できません。これは集まって騒ぐことが禁止された、と考えるべきなのでしょう。これ以降、年末に集まって職を求めることは無くなりましたが、「自宮」が無くなったわけではなく、コネや推薦で宦官になる方法が主流になるのでございます。どんどん忙しくなる錦衣衛だけでも、毎年多数の宦官職員の採用が必要だったのでございますゆえに。

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明・余継登「典故紀聞」巻十五より。明は実に変な時代だったんだなあ、と思ってしまい・・・そうになりますが、この話題はいろいろ難しい論点を含んでおりそうです。今は話題にしない方がいいので、よし、この漬物樽に入れて蓋をして知らん顔しておこうっと・・・。

―――待て。肝冷斎、この記述は、多様性社会の発展に疑問ないし反感を持っている証拠ではないか。許さんぞ!

これはいかん。「めっそうもござらぬ。そんなことはありませんぞ」と強く言っても拷問などで自白させられるかも知れません。錦〇衛の目をくらますため、明日は姓名を替えてどこかへ旅立つことにします。休暇届け出したし。「自宮」は「清宮」に似ているような感じも。

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