8月20日 いよいよもうすぐ秋だ

目動言肆(目動き言肆(し)なり(「春秋左氏伝」)

暑いのは明日までだそうです。涼しくなってきたら、そろそろ行動を起こそうかなー。

この世のことは若いものに任せて、熊野詣でしてそのまま補陀落に行くかのう。

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魯の文公の十二年(前615)、秦と晋が河曲の地で戦った。

・・・とだけ、「春秋経」には書いてあります。結果も何も書いてない。そこで「左氏伝」を見ますと、この戦いは秦が仕掛けて、当初は秦側が優勢だったのですが、晋では大将軍・趙盾の家宰・臾駢(ゆへん)が全軍の行動について献策するようになり、その策略のおかげでだんだんと晋有利になってきた。

不利になってきた秦伯は、

「そろそろ退き時かと思うのだが、両者相打ちぐらいの状態に持っていくにはどうすればいいかなあ」

とブレーンの士会に訊いてみた。士会は

「心配はございません。趙氏に一族に趙穿という者がおりますから」

「はあ」

「この趙穿というのは、

晋君之壻也。有寵而若、不在軍事。好勇而狂、且悪臾駢之佐上軍也。

「はあ」

若使軽者肆焉其可。

「なるほどのう、ふっふっふ」

それからは戦闘の度に秦軍は、趙穿の部隊の前を防禦する兵士たちに、少し戦っては撤退させた。趙穿は追撃しようとするのだが、そのたびに晋の本陣からは「突出するな」という指示が来て、追撃できないのである。

趙穿は、自分が功績を立てるのを、臾駢ら本陣の参謀たちが邪魔をしているように感じられて、不満を募らせていた。

ある晩、

秦行人戒晋師曰、両軍之士皆未憖也。明日請相見也。

「憖」(ぎん)は、「なまじいに」と訓ずる字ですが、ここでは「欠ける」と同義に使われているようです。

秦側は、併せて、今夜のうちに、今日までの戦いで戦死した兵士のしかばねをお互いに引き取ることにしようと提案してきた。

いずれも理に適った提案である。

使者たちは、帰りに、趙穿の率いる先鋒隊を見つけると、彼らに向けて、ことさらに、

「趙盾どのに明日こそは決着をつける戦いをしようと申し入れて来た。明日は一歩も退かぬぞ」

と告げて行った。

本陣では、臾駢が趙盾に言った、

「ごらんになりましたか。

使者目動而言肆懼我也。将遁矣。薄諸河、必敗之。

「そうだな・・・」

このとき、趙穿が、大急ぎで本陣にやってきました。

門番からすでに軍議が終わりそうになっていると聴くと、

当軍門呼曰、死傷未収而棄之、不恵也。不待期薄而人於険、無勇也。

と。

「おおーーーーーー!」

兵士らは趙穿の声を聞いて、その内容に賛同する鬨を挙げた。

これでは今晩の攻撃を命ずるのは難しい。趙盾と臾駢は顔を見合わせて苦笑すると、

乃止。

秦師夜遁。

そして、

「うっしっしー」

復侵晋。

翌年、両軍対等の停戦を結んで戦役は終了しました。

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「春秋左氏伝」文公十二年条より。若い人にはどんどん働いてもらいましょう。わたしどもは、毎週月曜日が来るたびに目はきょろきょろし、言葉は抑揚を失って裏返ってしまうような生活を続けてまいりました。もういいかなあ。もう今晩のうちにとんずらしようかなー。

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