箪瓢衲鉢(箪・瓢・衲・鉢)(「良寛詩」)
今日も暑かったですね。だが、もういいや。「もう暑いのやめなされ」というわしの忠告を聞かないのですから、太陽はもう勝手にやっててください。わしはもう帰る。

よくぞ思い切った。あっぱれでぶー。
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どこへ?
―――林の中へ。
林間倒指已六十、 林間に指を倒すこと已に六十、
一箪一瓢送余年。 一箪一瓢、余年を送る。
世上富貴雖可羨、 世上の富貴は羨むべきといえども、
竹子時節不得間。 竹子の時節、間を得ず。
林の中で暮らして、指降り数えればもう六十(年)になる。
竹で編んだ弁当箱と瓢箪で、これからの人生を過ごします。
「論語」雍也篇にいう、
子曰、賢哉回也。一箪食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂、回也不改其楽。賢哉回也。
子曰く、賢なるかな回や。一箪(たん)の食(し)、一瓢の飲、陋巷に在り。人はその憂いに堪えざるも、回やその楽しみを改めず。賢なるかな、回や。
孔子がおっしゃった。
賢者ではないか、顔回は。
飲み食いするのは、竹の割り子に盛り切りの飯、ひょうたん一本に入れた水。
きたない小路に住んでいる。
みなさんはそんな生活はイヤで逃げ出したいだろう。しかし、顔回は「その楽しみ」を改めようとしない。賢者ではないか、顔回は。
に由っています。
「論語」の有名な章ですが、古来、解釈に大きな争いがある章でもあるんです。みなさん、顔回の「その楽しみ」とはなんだと思いますか。
A)そういう貧乏で気遣いの無い暮らしそのものが楽しい。
B)そういう暮らしの中でも、孔子の教えを受けて真理を追究するということが楽しい。
さあ、どちらでしょうか?
今回は直接関係ないので「どちらでも結構ですよ」ということにして、次に行きましょう。
この世の中の財産と地位は、とても羨ましいものではあるが、
筍の生える季節になると(筍取りに)忙しくて、(財産や地位を求める)ヒマがない。
いいね。富貴を求める(ことしか知らない)「広義の資本主義者」にもびしっと効くね。中には気づいてくれる人もいるかも知れません。
昼出城市行乞食、 昼は城市に出でて行くゆく食を乞い、
夜帰巖下坐安禅。 夜は巌下に帰りて坐して禅に安んず。
蕭然一衲与一鉢、 蕭然たり、一衲と一鉢、
西天風流実可憐。 西天の風流、実に憐れむべし。
昼は町中や市場に出かけて行って、あちらへこちらへと乞食(こつじき)して歩き、
夜になるとこの岩の下の洞窟(のような庵)に帰ってきて、座って瞑想に安んじる。
さっぱりとしたものじゃ、一枚の僧衣と一つの鉢だけで暮らせる。
西方の天竺のひとたちの風流な暮らしは、まことにすばらしい。
ということで、
竹製の弁当箱、ひょうたん、服は一着だけ、どんぶりばち
これだけあったらもう十分なんです。
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本朝・大愚良寛「良寛詩集」より。今もほとんどこんな感じでやってます。ただし、江戸時代よりみなさんの振りかざす正義が厳しい世の中なので、タケノコ生えても採りにいくと捕まります。野良のイヌやネコもいないし、子どもと遊ぶと通報されるので、当時とは少し違った生活をしておりますが。