晩必流涕(晩に必ず流涕す)(「禅関策進」)
腹が減ると涙も出ます。

タヌキも逃げ出す厳しさじゃ!
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宋のころ常州の伊庵にいた有権禅師は、臨安のひとであったが、若くして出家し、
用功甚鋭。
功を用いること甚だ鋭なり。
修行の仕方がものすごく(自分に)厳しいのであった。
至晩必流涕曰、今日又只恁麼空過。未知、来日工夫如何。
晩に至れば必ず流涕して曰く、今日またただ恁麼に空過す。いまだ知らず、来日の工夫如何なるかを。
夜になるたびに何時も涙を流しているので、何を悲しんでいるのかと問うと、
「今日もまたただただこのように空しく過ごしてしまいましたのじゃ。明日以降、どんなふうに修行が進められるかも皆目わからないのに・・・ああ、どうすればいいのだ!」
と言うのであった。
そのうち、どんどん修行に熱心になって、
師在衆、不与人交一言。
師、衆に在るも、人と一言を交えず。
禅師は、他の人たちと一緒にいても、誰とも会話しなくなった。
わたしも、修行ではないのですが、あまり人と会話しませんので親近感が湧いてきました。
禅師は、
夜坐達旦、行粥者至、忘展鉢。
夜坐して旦に達し、行粥者至るも、展鉢を忘る。
一晩中座禅を組んで朝になってしまい、朝のおかゆを配る給仕人がやって来ても、座禅を組んだままで自分のお鉢を前に出さなかった。
お鉢が置いてないとおかゆを入れてもらえません。
隣僧以手触之、師感悟。
隣僧手を以てこれに触るるに、師感悟せり。
隣に座っていた僧侶が(話しかけてもどうせ聴こうとしないだろうから)手で突っついてやったところ、禅師はやっと目を覚ました。
それで、おかゆがもらえました。
曰く、
引得盲亀上釣船。
盲亀を引き得て釣船に上らしむ。
目の見えないカメが大海原に漂っている。彼は三千年に一回だけ、波間から頭を出す。そのカメの頭が、これも大海中を漂う板切れの穴にすっぽりと入る確率は何分の一であろうか。―――それが、われら生命体が長い輪廻の中で、仏法に出会える確率と同じなのである。
・・・といいますが、その目の見えないカメを釣り船の甲板に釣り上げてくださったようなものじゃ。
と感謝したという。
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明・雲棲袾宏「禅関策進」及び宋・普済「五燈会元」巻二十より。おかゆをもらえずに腹が減ったままなら、「なぜ教えてくれなかったのだ、ぎぎぎぎ(←歯をきしませる音)」とすごい恨みが残ってしまいますから、修行者としては失格です。そこを助けていただいたのだから、たいへん感謝しなければなりません。
しまった! 今日もただこんなことをしているうちに一日を空しく過ごしてしまいました!ああ、どうすればいいのだ・・・。