連雨独飲(連雨に独り飲む)(「陶淵明集」)
九州や中国や日本海側はよく降っているみたいです。

雨の釧路は寒いぜ。
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雨が続くと農作業ができません。商売あがったりです。
とはいえ、
運生会帰尽、終古謂之然。
運生はかならず尽きるに帰し、終古にこれを然りと謂えり。
人の生というのは、必ず尽きてしまうのであり、いにしえからそのとおりだと誰もが言う。
ほんとうでしょうか。
世間有松喬、於今定何聞。
世間に松・喬有りというも、今において定めて何をか聞かん。
この世には、赤松子や王子喬といった仙人がいて不老長生したというが、みな紀元前の人たちであって、現代(四世紀)には彼らのことを一体どこかで聞くことがあろうか。
彼らのことを聞かないのだから、彼らももう死んでいるのだ。
・・・雨を眺めながらそんなことを考えていたところへ、
故老贈余酒、乃言飲得仙。
故老余に酒を贈り、すなわち言う、「飲めば仙を得ん」と。
知り合いの年寄が、わしに酒を持って来てくれた。じじいが言うには、「これを飲めば仙人になれるぞ」と。
仙人のことを考えていたところへこの贈り物じゃ。ありがたいなあ。
試酌百情遠、重觴忽忘天。
試みに酌めば百情遠く、觴を重ぬれば忽ち天を忘る。
ちょっと飲んでみますかね、と飲んでみたら、いろんな思いはどこかに行ってしまい、もういっぱい行きますかね、ともっと飲んでいたら、あっという間に(仙人の棲むという)天のことも忘れてしまった。
ここからハイになります。
天豈去此哉、任真無所先。
天あにこれを去らんや、真に任せて先んずるところ無し。
(だいたい、彼らが棲むという)天もどうしてこの現実の地から遠いことがあるであろうか。ただ、真実に任せて先走らなければ、それでいいのだ。
いつかは行くのだ。
雲鶴有奇翼、八表須臾還。
雲鶴には奇翼有りて、八表も須臾に還る。
雲間を行くツルには、すごい翼があって、地球の上をあっという間に移動してしまえる。
それなのに、
自我抱玆独、僶勉四十年。
我の玆(こ)の独りを抱きてより、僶勉(びんべん)たること四十年なり。
「僶勉」(びんべん)は「つとめ励むこと」。「しこしこ」という語感でしょうか。
わたしはこの自分というものを自覚してから、四十年間真剣に生きてきたんです。
形骸久已化、心在復何言。
形骸は久しく已に化するも、心は在りてまた何の言うところぞ。
身体はもう大分前から老いぼれてしまったが、心はちゃんとありますから、文句は言いません。
心はちゃんとあって、田園に帰り、労働に励み、時に酒をいただいてキモチよくなっているのです。
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晋・陶淵明「連雨に独り飲む」。飲んでぐだぐだ言っている感じがうまく出ていますね。仕事がないのでヒマで自得してます。自作農だからさすがに「キャベツばかりを齧る」こともないのでしょう。さて、関東も今週は降るのでしょうか。
7月8日の蘇頌さまの作った天文時計は、こんなやつなんです。ジョゼフ・ニーダムの本ごろごろしていたら出てきました。

蘇頌はこれを設計した、のではなく、実際に製作して動かしているのですごいことです。