7月7日 わたしどもは旧暦ですので

利剣出匣(利剣、匣を出づ)(「趙州録」)

七夕とか関係なく、人生修行です。

今年もなかなか進展無く、厭きてきている二人では?

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僧問う、

利剣出匣時如何。

利剣、匣を出づる時、如何。

ぎらぎらの剣が箱から出される時―――真実を悟るその時―――はどんなふうですか。

趙州和尚曰く、

黒。

黒し。

暗闇じゃ。

何も分かたぬ暗闇である、という。

確かに、どんなぎらぎらの剣でも、自ら発光しないかぎり、暗闇の中では暗闇だ。悟りを得た瞬間も、今自分が悟りを得た、と自分で明確に認識するような状態ではないのでしょう。経験ないんで知らんけど。

僧問う、

正問之時、如何弁白。

正しく問わん時、如何にしてか白を弁ぜん。

(いやいやぎらぎらの剣なんです。)ほんとうに今質問したような状況なら、どうやって光り輝くものを見分けられるのですか。

この僧は「見分けられる」と思っているようです。なるほど。おそらく、自分が悟れたのではないか、悟れたと思う、という体験をして、和尚に確認を求めているのでしょう。

和尚曰く、

無者閑工夫。

者閑(しゃかん)の工夫無し。

この「者」は指示代名詞、「それ」。

いろいろしなければならんのだ、そんなヒマは無いぞ。

僧は食い下がった、

叉手向人前争奈何。

叉手して人前に向かうを争奈何(いかん)せん。

手を重ねてあなたの前におりますのを、どう考えますか。(わたしはどうですか?)

趙州従諗は気の長いので有名な和尚だ。

早晩見你叉手。

早晩に你の叉手するを見しか。

いつ、お前さんが手を重ねているのを見たのじゃ?(誰が?)

「早晩」は、朝と夕方、いつでも、疑問形だと「いつ?」。

僧言う、

不叉手時如何。

叉手せざるの時は如何。

手を重ねていない時はどうですか。

ここで、和尚がキレたようです。

誰是不叉手者。

誰かこれ叉手せざる者ぞ。

「いったい誰だ、手を重ねていないのは!」

大丈夫です、キレたように見えただけです。和尚は、「おまえが自分だと思っているそれは何だ?」と訊いてくださっていたのです。「おまえが和尚だと思っているわしが誰かもわしはわからんのだぞ!」と言いたくもなっておられたことでしょう。

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唐・趙州従諗「趙州録」巻中より。禅語録は退屈しますよね。こんにゃく食ってる方が咽喉ごたえもあって、まだましかも。まあ、時々勉強しましょう。今日はまだでも、いつか役に立つ日が来るであろう。

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