利剣出匣(利剣、匣を出づ)(「趙州録」)
七夕とか関係なく、人生修行です。

今年もなかなか進展無く、厭きてきている二人では?
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僧問う、
利剣出匣時如何。
利剣、匣を出づる時、如何。
ぎらぎらの剣が箱から出される時―――真実を悟るその時―――はどんなふうですか。
趙州和尚曰く、
黒。
黒し。
暗闇じゃ。
何も分かたぬ暗闇である、という。
確かに、どんなぎらぎらの剣でも、自ら発光しないかぎり、暗闇の中では暗闇だ。悟りを得た瞬間も、今自分が悟りを得た、と自分で明確に認識するような状態ではないのでしょう。経験ないんで知らんけど。
僧問う、
正問之時、如何弁白。
正しく問わん時、如何にしてか白を弁ぜん。
(いやいやぎらぎらの剣なんです。)ほんとうに今質問したような状況なら、どうやって光り輝くものを見分けられるのですか。
この僧は「見分けられる」と思っているようです。なるほど。おそらく、自分が悟れたのではないか、悟れたと思う、という体験をして、和尚に確認を求めているのでしょう。
和尚曰く、
無者閑工夫。
者閑(しゃかん)の工夫無し。
この「者」は指示代名詞、「それ」。
いろいろしなければならんのだ、そんなヒマは無いぞ。
僧は食い下がった、
叉手向人前争奈何。
叉手して人前に向かうを争奈何(いかん)せん。
手を重ねてあなたの前におりますのを、どう考えますか。(わたしはどうですか?)
趙州従諗は気の長いので有名な和尚だ。
早晩見你叉手。
早晩に你の叉手するを見しか。
いつ、お前さんが手を重ねているのを見たのじゃ?(誰が?)
「早晩」は、朝と夕方、いつでも、疑問形だと「いつ?」。
僧言う、
不叉手時如何。
叉手せざるの時は如何。
手を重ねていない時はどうですか。
ここで、和尚がキレたようです。
誰是不叉手者。
誰かこれ叉手せざる者ぞ。
「いったい誰だ、手を重ねていないのは!」
大丈夫です、キレたように見えただけです。和尚は、「おまえが自分だと思っているそれは何だ?」と訊いてくださっていたのです。「おまえが和尚だと思っているわしが誰かもわしはわからんのだぞ!」と言いたくもなっておられたことでしょう。
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唐・趙州従諗「趙州録」巻中より。禅語録は退屈しますよね。こんにゃく食ってる方が咽喉ごたえもあって、まだましかも。まあ、時々勉強しましょう。今日はまだでも、いつか役に立つ日が来るであろう。