累亦従田(累もまた田に従う)(「五雑組」)
田んぼはあっても耕す人がいないと困る・・・ですよね。

土地・資本がなく労働もないので大人しくしています。
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今日はむかしの同僚のみなさんと、久しぶりで晩飯を食う。二十年以上前の同僚なので、無頼派の肝冷庵を除き、今ではみなさんもう名と財を成して家も持っているのですが、田んぼまで持っているのはいません。家庭菜園が限界だ。
だが、
人生不可無田。
人生、田無かるべからず。
人の生涯においては、田地を所有していなければならない。
何故とならば、
有則仕宦出処自如、可以行志。故福字従田従衣。謂之衣食足為福也。
有ればすなわち仕宦出処自如として、以て志を行うべし。故に福字は田に従い衣に従う。これを衣食足るを福と為すと謂えり。
田地を所有しているなら、就職して勤務するも辞めてしまうも自分の思いのままで、やりたいようにやれるからである。そこで、「福」(しあわせ)の字を見ていただきたい。「福」の字には「田」の部首が入っており「衣」の部首が入っている(あれ? ほんとに?)。衣(着る物)・食(食べる物)が足りれば、そのことを「福」というからである。
とはいえ、
必税軽徭簡、物力有余之地、差足自楽。
必ず税軽く徭簡にして物力有余の地にして、やや自楽に足れり。
税金が軽く、徭役(労務奉仕)が簡便で、物資や労働力が豊富にある地域であって、はじめて自足して気楽にやっていけるのである。
ああ!
若三呉之地、賦役繁重、追呼不絶、祇益内顧之憂耳。
三呉の地のごとき、賦役繁重、追呼絶えず、ただ内顧の憂いを益すのみなり。
我が長江下流のかつての呉の地方は、税金や徭役がはなはだ重く、追加徴収の号令も絶えることがない。こんなところで田地を所有しても、ただ家庭内の心配事を増やすだけである。
だから税金安くしろ。
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宋・周煇「清波雑志」より。「清波」は浙江・杭州城の門の名前で、「清波雑志」はこの杭州に住む著者のいろいろな雑文、という意味になります。
同じ浙江に住んだ明・謝肇淛は「五雑組」巻四でこれを批判して曰く、
彼但知福之従田、而不知累之亦従田也。
彼はただ「福」の「田」に従うを知るのみして、「累」のまた「田」に従うを知らざるなり。
周煇は、「福」(しあわせ)の字に「田」の部首が含まれることは知っていたようだが、「累」(わずらわせる)の字にもまた「田」の部首が含まれていることには気づかなかったようだ。
わははは、もっと勉強してほしいものですなあ。
と言ってます。
「累」(るい)はもちろん「つなぐ」「しばる」「かさなる」「手数をかける」の意。ちなみに、「累」字の「田」は本来は「田」(この場合は太鼓の象形)を三つ書いて「らい」と読み、「かみなり」(ごろごろという音)を表す形象です。これに「糸」がついて、「(かみなりが)連続する」という意味の文字になったもの。
さらに、
按福字傍従示、不従衣。
按ずるに「福」字の傍は「示」に従い、「衣」に従わず。
よく考えると(よく考えなくてもいいんですが)、「福」の字の偏は「示す」偏であって、「衣」偏ではない。
わはははー。いひひひー。
(なお、今回の「清波雑志」の文章は「五雑組」に引用されているものを利用しました。原文はもう少しごちゃごちゃと書いておられますので、→従田従衣をご参照ください。このページ、肝冷庵再開前に実験的に投稿したころのもので現在の目次からは入れません。)