君子零落(君子零落す)(「鶴林玉露」)
ええー! カラスはイヤなやつ、ですと? 都市に山野に肩寄せ合い、時には互いに激しく争いながら、知恵を尽くしてそれぞれの生を健気に生きている、まさにわたくしどもの譬喩かと思うのに。ぎゃあ、ぎゃあ。

テング先生のお供もしているのでぎゃあ。
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君子寡而小人多。
君子寡くして小人多し。
立派なひとは少ない。下らぬやつらは多い。 ・・・※
また、
君子凄涼零落、小人噂沓喧競。
君子凄涼として零落し、小人は噂沓喧びすしく競う。
立派な人はさびしく落ちぶれていき、下らぬやつらは靴を競わせて集まり、うるさく(人事や蓄財の)話をしている。・・・※※
ものです。いつの時代にも。今は宋の時代ですが。
さて、畑仕事(の地主としての指導)を終えて、夕方かえって来て、唐詩を読んだ。
孤雁不飲啄、飛鳴声念群。誰憐一片影、相失万重雲。
孤雁飲啄せず、飛び鳴きて声、群を念うなり。誰か憐れまん一片の影、相失いて万重の雲あるを。
たった一羽になった雁は、飲み食いもせず、飛びあがって鳴く、その声は仲間たちのことを思っているのである。
いったい誰が理解してやるのか。小さな(雁の)影は、一万重ねの雲のかなたに仲間と離れてしまっているのだ。
これに対して、
野鴉無意緒、鳴噪自紛紛。
野鴉に意緒無く、鳴き噪ぎて自ずから紛々たり。
広野のカラスたちには何の感情も無く、ぎゃあぎゃあと鳴き騒いで、あちらこちらで争っている。
雁の高潔なのとは大違いです。
ふんふん。
晩飯を食ったあとまた読んでいたら、
独鶴帰何晩、昏鴉已満林。
独鶴帰ること何ぞ晩(おそ)き、昏鴉すでに林に満てり。
たった一羽で暮らす鶴。戻ってくるのが遅かった。夕暮れのカラスたちが、もうすでに林を占拠しているぞ。
というのもあった。
これらは、
似興、其形容精矣。
興するに似て、その形容精たり。
譬喩として使われているのだろうが、実にうまく※や※※の状態を表現しているではないか。
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宋・羅大経「鶴林玉露」甲編巻四より。逆もまた真なり。少数で、零落している者たちこそ君子なのかも知れません。違うかな。