何心断送春(何(いか)なる心ぞ、春を断送す)(「陸放翁集」)
もうすぐ終わりです。ぜひ、悪いことするな、いいことしろ、こころ清らかに。

ハマの真砂が尽きるまでには、彼もブッダになっているはず。
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春も終わり、雨の季節になってまいりました。
冉冉流年不貸人、東園青杏又嘗新。
冉々(ぜんぜん)たる流年、人に貸さず、東園の青杏また新しきを嘗む。
「冉」(ぜん)は頬髯が両方に垂れさがっている象形文字です。そう思ってみるとオモシロいですね。もちろん「髯」を意味していたのですが、頬髯が柔らかいので「よわい」「やわらか」「しなやか」、「冉冉」と重なると、「しなやかに進んでいく様子」をいいます。
「楚辞・離騒」にいう、
老冉冉其将至兮。
老いの冉冉としてそのまさに至らんとす、兮(けい)。
老いが、すいすいと今まさにやってこようとしているのだ、ホイ。
と。
どんどん流れていく年月、人間には一日たりとも貸し付けてくれずに進むから、東の果樹園の青いアンズは、今年もまた新しいのを食べられる季節になった。
「杏」というのは、しうまい弁当に入っているアレですね。
方書無薬医治老。風雨何心断送春。
方書に薬無し、老を医治するに。風雨何(いか)なる心ぞ、春を断送すとは。
道家の書物をひっくり返してみても、老いを治療する薬は見つからぬ。風と雨はどういうつもりであろうか、春を完全に終わらせて追い出すつもりだ。
この人は老人のようです。
へへへ、いいクスリあるかも知れませんぜ。カネさえあれば。・・・ああ、わしもカネさえあればなあ。
閑話休題。
楽事久帰孤枕夢、酒痕空伴素衣塵。
楽事は久しく孤枕の夢に帰し、酒痕は空しく素衣の塵に伴う。
楽しいことは、もうずっと前から、独り寝の枕で見る夢に中にしかない。酒をこぼしたあとは、退職後の色なしの服についたゴミと一緒になって、今となってはもう空しいことだ。
いいクスリさえあれば、独り寝の枕よりいい夢が見られるかも知れませんぜ。へへへ。
いや。もう要りません。もう行き先は見えてきているのだ・・・が、
畏途回首濤瀾悪、頼有雲山著此身。
途を畏れて回首すれば濤瀾悪(あ)しく、雲山のこの身に著する有るを頼らん。
行き先の道がコワくなって後ろを振り向いて(過去に逃げ込もうとして)も、波濤が打ち寄せてひどい状態だ。この身には、長い人生の間に山中の雲やかすみ(のような飄然たる気持ち)が染みついているから、それを頼りにもうしばらく進もう。
この年、嘉泰四年(1204)、放翁八十歳です。評者(近人・刁抱石先生。先生は台湾の人みたいですね)曰く、
或謂、此首亦清婉蘊藉之作、以後漸少。
或いは謂う、「この首また清婉にして蘊藉の作なり、以後漸く少なし」と。
あるひとが言った、「この一首は、(若いころのように)さわやかで素直、それでいていろんな思いがぎっしり詰まっているなあ。これ以降はこんな作品はだんだん少なくなっていく」と。
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宋・陸游「陸放翁集」より「春晩雨中作」。だんだん年をとっていきます。放翁もわたしもみなさんも。
しかし、放翁は、同じころ、こんな文章も書いているんです。
粤。自曠大劫来、至神応迹、開示天人、未有不以文字語言相授者、今七仏偈、是其一也。
粤(えつ)。曠たる大劫の来たるより、至神迹に応じ、天人に開示するに、いまだ文字語言を以て相授けざる者有らず、今の七仏偈、これその一なり。
ああ。はるかなる昔、宇宙の生成のころから、最高の神性の暗示は天と人に対して開示されており、これは文字・言語によらずに伝授されてきたわけではない。現代まで伝わる「七仏の偈」は、その一つである。
「七仏偈」はおシャカ以前の七人(おシャカのやろうも含む)のブッダに通じる共通の偈(真理詩句)というやつで「法句経」に出る。
ブッダたちはみんなこれだけは共通して言っておった、というのだ。
諸悪莫作(しょあくまくさ) もろもろの悪は作(な)すなく、
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) もろもろの善は奉行し、
自浄其意(じじょうごい) 自らその意を浄くす。
是諸仏教(ぜしゅぶつきょう) これ諸仏の教なり。
百回読まなくても途中二十回ぐらいで覚えられると思いますので覚えておきましょう。
至於中夏、則三十万年之前、包犠氏作、已画八卦造書契矣。
中夏に至り、すなわち三十万年の前、包犠氏作(おこ)り、八卦を画するを以て書契を造れり。
中華に伝わってきたのは、三十万年前で、伏犠さまが生まれ、易の原型となる八卦、二進法の六ケタまでの図を作って、はじめて記号というものを創造したのだった。
ほんとですよ。つい百十年ぐらい前までの正統的な歴史では。
釈迦之与、固亦無異。今一大蔵教、可謂富矣。
釈迦これに与し、もとよりまた異なる無し。今の一大蔵教は富めるというべし。
お釈迦のやつはこれと協力して、もちろん何の異同もない。現代に伝わる「大蔵経典」はすごくたくさんある、といえるであろう。
しかし、それだけでは足りませんので、この本ができたのだ・・・云云。
・・・これは「普燈録」という本の序文です。元気ですね。三十万年前って、北京原人の時代でしょうか。「普燈録」は浙江の僧・雷庵正受が、禅僧だけでなく、古代からの聖人、王公貴族文人武士の名言も禅学の立場から採録した、という変な本ですが、おおっと、変といったら怒られますぞ。この書はこの嘉泰四年、放翁の序文を附して寧宗皇帝に献上され、禅宗の基本高僧伝である「四燈録」の一と認められた権威ある書物です。
放翁・陸游はこのあと五年半ぐらい生きます。さて、あと五年半経ったころはどうなっておるかな? ウクライナや中台や大麻合法化や少子化とかのことではなくて、もちろんわたしのことですよ。 みなさんはどうかな?

こんな画像が年譜についていました。近代に画かれたものと思うが、これだけみると前向きの積極的なひとのようだぞ。