恍如隔世(恍として世を隔つがごとし)(陸放翁集)
体力も落ちているが、ぼけてきてもいるんだと思います。もう役に立とうという気もないが迷惑でもあるようじゃ。

一般のウニは10年ぐらいだそうですが、200年生きた個体もあるという。若いウニ衆にかなり突き上げられますよね。
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肝冷斎はそれでシアワセですが、むかしが懐かしくなるひともいるかも知れません。
天王広教院在蕺山東麓。
天王広教院は蕺山(しゅうざん)の東麓にあり。
「蕺山」は浙江山陰にある山。明代の蕺山書院が有名ですが、仏教のお寺もあったようです。
天王広教院という寺院は、我が山陰の町の北にある蕺山の、東の麓にある。
予歳二十余歳時、与老僧恵迪遊略無十日不到也。
予、歳二十余の時、老僧・恵迪(けいてき)と遊びて、十日に到らざること無し。
わしが、二十いくつのころは、そこに住んでいた老僧・恵迪のところに十日に一回は出かけて(、座禅を組んだり仏法について語り合ったりしていた)ものじゃ。
今年、
淳煕甲辰秋、観潮海上偶縶舟其門、曳杖再遊。
淳煕甲辰の秋、海上に観潮してたまたまその門に舟を縶(つな)ぎ、杖を曳きて再遊せり。
淳煕十一年(1184)秋、海上(地名です)に大潮の日に海潮が押し寄せる景観を(自家用の舟で)見に行った帰り道、たまたまその寺院の前を通ったので、舟を降りて、(若いころと違い)杖を曳きずりながら、久しぶりで訪問してみた。
ああ。
恍如隔世矣。
恍として世を隔つがごとし。
ぼけーとしてしまって、ここにかつて来たのが、まるで前世のことのようだ。
そこで、詩を作りました。
遊山如読書、深浅皆可楽。
山に遊ぶは書を読むが如く、深浅みな楽しむべし。
山中をふらふらするのは、読書とよく似ている。深いのも浅いのも、どんな時でも楽しい。
道辺小精舎、亦自一邱岳。
道辺に小精舎、また自ずから一邱岳。
道端にある小さなお堂、その先にはまた出てきました尾根が一つ。
凄涼四十年、始復重著脚。
凄涼たり四十年、始めてまた重ねて脚を著く。
なんとも寂しいものでした、わたしのこの四十年―――。あのころ以来、ここに足を踏み入れたことは無かったのだ。
四十年。肝冷斎が会社に入ったころを思い出しているようなものです。凄涼たり・・・。
老僧逝已久、講座塵漠漠。
老僧逝きてすでに久しく、講座に塵漠漠たり。
お世話になった老僧は、もう亡くなってずいぶんになるということだ。当時彼が座って説教していた座布団にも、ちりやほこりがいっぱい積もっている。
当時童子輩、衰鬢亦蕭索。
当時の童子輩、衰鬢また蕭索たり。
あのころの小僧たちが、今では鬢が白く、さびしくなってきているのだ。(頭頂部は剃っているのでわかりません)
彼らに案内を乞うて、むかし宿った小さな部屋に入れてもらった。
掃壁観旧題、歳月真電雹。
壁を掃いて旧題を観るに、歳月は真に電雹なり。
汚れた壁を掃ってみると、あのころ書きつけたわしの詩が遺っていた。歳月は、ほんとうに、雹を伴った雷電のように、あっという間に過ぎていったのだ。
みなさんは落書きしてはいけませんよ。
文章卑不伝、衣食窘如昨。
文章卑にして伝わらず、衣食は窘(くる)しきこと昨の如し。
あれから、わしは文章家としてダメだったので少しも有名にはならず、服や食べ物に困っている点では、まったくあのころと一緒だなあ。
出門意惘然、遼海渺孤鶴。
門を出でて意(おも)い惘然、遼海に孤鶴渺(びょう)たり。
寺の門を出てきた。精神はぼんやりとしてしまった。はるかな海の上に、孤独な鶴が舞っているのが、かすかに見える―――。
放翁先生六十歳の作品である。わしはもうそんな小さい鶴なんか見えませんけどね。
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南宋・陸游「陸放翁集」より。放翁は四十年ですが、肝冷斎はわずか二日ほど離れていた間に、こちらではもう何十年も経ったのかと疑ってしまったぐらい、浦島タロウのように自分の居場所がないことに今さらながら気づきました。歯も痛くなってきました。夏バテだし、「もうそろそろ休息するころだぜ」と若いのがにやにやして追い出しにかかってくるようです。・・・いや、目を擦ってよくよく見れば、ぼけていただけで、若いのはいつもどおりにこにこと迎えてくれているだけだ・・・いや、待てよ・・・。
来世の方が近いからしようがないなあ。