6月23日 高齢者でも怒っていいのかな

寿将百歳(寿まさに百歳ならんとす)(「李開先集」)

年寄りは少しは興奮した方がいいみたいですよ。

じじいども、許さん! 
ぐわ! 
とやられるばかりでいいのか。

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明の嘉靖年間(1522~66)のことですが、

世有好棋与詩酒者、寿将百歳。

世に棋と詩酒を好む者有りて、寿まさに百歳ならんとす。

巷に象棋と詩と酒を好んでいて、もうすぐ百歳なろうとするじいさんがいたのだ。

当時は百歳は珍しかったですからね。

わしは、

疑而問之、三者動火而耗気血、何以能躋高寿。

疑いてこれに問うに、三者動火にして気血を耗(うしな)う、何を以てよく高寿に躋(のぼ)るや、と。

何か違うような気がして訊いてみた。

「象棋と作詩と飲酒―――この三つはいずれも体内の火性を活動させて興奮し、それによって気と血が蒸発して減ってしまう行為ではありませんか。どうしてこんな歳まで生きてこれたのですか?」

「ほうほう」

老者自言、吾之於棋、信手而已。於詩、信口而已。於酒、取其淡白者解渇吻潤枯腸而已。

老者自ら言う、吾の棋におけるは手に信(まか)すのみ。詩におけるは口に信すのみ。酒におけるは、その淡白なるものを取りて渇吻を解き枯腸を潤すのみなり、と。

じいさんが自ら言うには、

「わしが象棋をするときは、手の動くままにコマを進める。詩を作るときには、口の動くままに作っている。お酒は、(ちょっと工夫があって)味も度数も薄いのを選び、口の渇きを解消し乾燥した内臓を湿潤にするだけ、じゃからなあ(。興奮することはありませんのじゃ)」

と。

さて、

中麓子雖資不敏、而才最下、亦嘗官京師、刻苦為奇古詩。年四十、罷帰田里。

中麓子は資敏ならず、才最も下なりといえども、また嘗て京師に官たりて、刻苦し奇古詩を為(つく)り、年四十にして罷めて田里に帰れり。

中麓先生という人は、素質はダメで才能は大ダメ、しかし嘗ては首都・北京で役人をしていて、苦しみながら個性的で古風な詩を作っていた。四十歳になって、辞めて田舎に帰ってきました。

それからは、

既無用世之心、又無名後之志。頓然覚悟、詩不必作、作不必工。

既に世に用いらるの心無く、また後に名するの志無し。頓然として覚悟し、詩必ずしも作らず、作るも必ずしも工ならず。

もう現世で使われようというキモチも無ければ、後世に名を残そうという意欲も無く、突然悟ったようになって、詩は無理に作るわけでもなく、作ってもあんまり工夫とかしなくなった。

或撫景触物、興不能已、或有重大事及親友懇求、時出一篇、信口直写所見。如老者之詩、之棋、酒。

あるいは、景を撫し物に触れ、興已むあたわず、或いは重大の事及び親友の懇求有りて、時に一篇を出だし、口に信せて所見を直写す。老者の詩、その棋、酒の如し。

景色を見、風物に感心して詩心が収まらなくなったとか、あるいは大きな事件が起こったとか、親類や友人がどうしても作ってくれ、と頼んで来た場合などに、時々一篇作って、口に任せて見たところをそのまま詩にする、という状態であったから、上述のじいさんの、作詩や象棋や飲酒と同じになったわけだ。

すみません、中麓子というのは、実はわたくし李開先のことでした。

自称其集曰間居、以別官居時苦心也。雖然、居官之苦多矣。固不独作詩云耳。

自らその集を称して「間居」と曰い、以て官に居る時の苦心と別す。しかりといえども、官に居るの苦は多きかな。もとより独り作詩のみにあらずと云うのみ。

自分で詩集には「ひま暮らし」と名付けた。これは北京にいたころの「役人暮らし」の苦しい心とは別になった、ということを明確にしたものだ。それにしても、役人時代の苦しみは多く、当然、(当時の)作詩の苦しみだけではない・・・とだけ言っておきます。

つらいことがあったのでしょうなあ。

吾今間居、不虞得失、作詩、不較工拙、其楽有難以言伝者。観吾詩者、幸求諸言外可也。

吾今間居し、得失を虞(おそ)れず、詩を作るも工拙を較べず、その楽しみは言を以て伝うるに難きもの有り。吾が詩を観る者、幸いにこれを言外に求めて可なり。

わしは今ではひま暮らしで、うまくいった行かなかったを心配することもなく、詩を作っても上手い下手を比較する必要もない。この楽しみ、コトバで伝えるのは難しいですなあ。むふふ。

わたしの詩を観む人は、できれば言外にその楽しみを読み取っていただけるとありがたい。

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明・李中麓「間居集序」「李開先集」より)。興奮した方が長生きできそうです。ふんがー

李開先、字:伯華は、明の弘治十五年(1502)生まれ、山東・章丘の人。嘉靖八年(1523)の進士で北京勤めで太常寺少卿という官までは出世したが、本文にありますように、四十歳のとき、上疏して当時の権臣・宦官の跳梁を批判して辞職、以後、詩文のほか、雑劇の台本や歌謡曲(「散曲」)を作って暮らし、隆慶二年(1568)卒した。自ら、中麓放客と号したという。

年寄も時々興奮する方がいいみたいなので、「ふんがー!」と興奮して、若いやつら困らせてやろうかなー。うっしっし。

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