相顧失色(相顧みて失色す)(「清稗類鈔」)
ヤバイことが起こった時、政府やNATOやIMF(←日本語名称忘れた)などではどんなふうにして物事が決まっているのでしょうか。

そういえばオリンピックの延期もどうやって決めたのだろう。タコが吸い付いたら延期、つかなかったら中止、とかだったのだろうか。
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清の康煕十三年(1674)、雲南の呉三桂が反乱を起こしました。清朝成立期の最後の難関、いわゆる「三藩の乱」の開始です。
この時、長江まで破竹の勢いで進んだ呉三桂は、そこでぴたりと進撃を止めてしまった。華北地方は大混乱に陥っていて、清朝建国時の名将たちもほとんど鬼籍に入り、皇帝の旗本である八旗軍も弱体化が問題になっていたところだったから、呉三桂が進軍を止めたことは、歴史上の謎の一つとされています。
実は(・・・という言い方が如何にも「稗史」(ゴシップみたいなくだらない歴史書)らしいですね)、その決断の前に、呉三桂とその幕僚たちは、湖南の聖地・南嶽衡山に登っていた、というのである。
衡山嶽神廟中有一小白亀、其大如銭、年齢数歳、時人以為神之使。敬而祀之、蔵之幃中、藉以占卜。
衡山嶽神廟中に一小白亀の、その大いさ銭の如く、年齢数歳なる有りて、時人以て神の使と為せり。敬してこれを祀り、これを幃中に蔵して、藉(か)りて以て占卜す。
衡山の山岳神のお堂の中に一匹の小さな白いカメがいて、その大きさは銅銭ぐらいしかなく、年齢は数歳ほどであるのだが、これを当時、「山神の使者」として崇め祀っていたのである。これをとばりの中にしまっておいて、それを使って占いをしていたのだ。
三桂たちは、
択吉祀神、展輿図于神座前、黙祝、祝亀之所向。
択吉して神を祀り、輿図を神座の前に展げ、黙祝し、亀の向かうところを祝す。
吉日を選んで山神を祀ると、神座の前に地図を広げて、無言で祈りを捧げ、この地図の上にカメを置いて、カメの向かうところで進撃方向を占おうとしたのだ。
このとき、①西の長安に北上して、西蔵からダライラマを迎え、ラマを信奉するモンゴル軍と一緒に北京を攻める、②湖北から河南を北東に進み、河北の反清グループを糾合して真っすぐ北京周辺を目指す、③長江に沿って下り、他の二藩や台湾の鄭氏政権と連絡を取って、江南の経済地帯を抑え、おもむろに北京に北上する、という三策がありました。どれを採るべきか、神意を伺ってみようというのであった。
三桂たちが見守る中、カメはそろりそろりと動き始めた・・・
亀蹣跚遁走、不出長沙、常、岳間、至雲南而止。
亀、蹣跚(まんさん)として遁走し、長沙・常・岳の間を出でず、雲南に至りて止まる。
カメは、ぐるぐると歩き回り、湖南の長沙、常州、岳州のあたりから出ようとしなかった。やがて、1~3のいずれでもなく、逆に雲南に向かって、そこで動かなくなった。
三桂は
再三拝禱、而亀仍不前。
再三拝禱するに、亀よりて前(すす)まず。
二度、三度と拝礼して禱ったが、カメはもう動こうとしなかったのである。
三桂与在場諸将、相顧失色。
三桂、在場の諸将と、相顧みて色を失う。
三桂と、その場にいた将軍たちは、お互いに顔を見合わせて、顔面蒼白になった。
これはヤバイかも。
故不敢軽出湖南。
故に、敢えて湖南を軽出せざるなり。
このため、湖南から軽々しく進撃することは止めたのであった。
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民国・徐珂編「清稗類鈔」方伎部「呉三桂以亀卜」(「清通鑑」所引)より。なるほど、そうだったんだ。カメの導きだったらしようがないですね。少子化政策が異次元ではないという批判がありますが、政府は「ものすごい異次元の超絶大対策」を考えていたのに、カメの導きで抑制したのかも知れません。だとしたら納得がいく・・・?
ちなみに、呉三桂の進撃停止については、一般には
1 呉三桂自身が老齢であり、これ以上の進出意図が無かった。
2 進撃しようとしたが、清軍の荊州兵が強く、これを突破できなかったという軍事的失敗に過ぎない。
3 呉三桂は清との間の「画地」(領土の分割)を考えており、外交的な調整を図ろうとしたが、若い康熙帝が断固としてこれを突っぱねた。
といった有力な説がたくさんあり、マジメな世界では、あまりカメは原因ではないようです。