酒酔飯飽(酒に酔い飯に飽く)(「東坡題跋」)
いや、ダメでしょう。

タコにもできないようないい暮らしだ。
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北宋の時代、だいたい元豊二年から六年(1079~83)のころですが、
東坡居士、酒酔飯飽、倚于几上。
東坡居士、酒に酔い飯に飽き、几上に倚れり。
東坡居士は酒に酔い、飯も腹いっぱいになって、小机に寄りかかっていた。
よりかかっている「几」(き)は、後世の脇息をイメージいただければいいと思います。
眺めると、
白雲左繚、清江右洄、重門洞開、林巒坌入。
白雲は左に繚(めぐ)り、清江は右に洄(めぐ)り、重門は洞開し、林巒(りんらん)は坌入(ふんにゅう)す。
白い雲は左の方にふわりと流れていく。
清らかな江の水は右の方にぐるりと流れていく。
門はすべてからりと開いてある。
山裾の林はいくつかに分かれて視界に入ってくる。
昼飯のあとでしょうか。のどかな時間です。お酒まで飲んでいるとは。
当是時、若有思而無所思、以受万物之備。
この時に当たりては、思い有るがごときも思うところ無く、以て万物の備えを受く。
この時、何か考えているかなあ、と思ったが何も考えておらず、そしてこのように天地万物からお供えをいただいているのだ。
慚愧慚愧。
慚愧、慚愧。
申し訳ないのう、申し訳ないのう。
だったら働け、と言いたい人もいるかも知れませんが、この時は罪人として流謫されているので、シゴトはできないんです。土地を少し借りて農業はしてもよかったみたいですが。
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宋・蘇軾「東坡題跋」より「書臨皐亭」(臨皐亭を書す)。「臨皐亭」(りんこうてい)、皐(さわ)に臨むの亭は、蘇軾自身が流謫地の湖北・黄州に「湿地の傍に築いた小さなあずまや」です。
ちなみに、黄州は長江沿いの町で、この臨皐亭の臨む「皐」(湿地)も長江のことだそうです。
臨皐亭下不数十歩、便是大江。
臨皐亭下、数十歩ならずしてすなわちこれ大江なり。
臨皐亭から下ると、数十歩も行かないところが、もう長江の流れである。
其半是峨眉雪水、吾飲食沐浴皆取焉。何必帰郷哉。
その半ばはこれ峨眉(がび)の雪水、吾、飲食沐浴みな焉(ここ)に取る。何ぞ必ずしも郷に帰らんや。
長江の水は、半分ぐらいは(岷江の水だから)峨眉山に積もった雪水だ(。峨眉山の麓の我が郷里・眉山を流れてきているのだ)。わしは飲食や風呂の水は全部この水を使っているのだから、郷里に帰る必要など無いんじゃ。
実際には流謫の身なので、そもそも帰郷の自由はありません。
江山風月、本無常主、閑者便是主人。問范子豊新第園池、与此孰勝。
江山風月、もとより常主無く、閑者すなわちこれ主人なり。問う、范子豊の新第園池、これといずれか勝らんや。
長江と山々と、風と月―――もともと誰かが主人だというわけではない。ヒマなやつがその主人なのだ。さて、最近、范子豊が作ったという新しい屋敷と庭園は、この(わしが主人の)風景とどちらが勝るかなあ。
范子豊は東坡の友人で、そのおやじは当時の旧法党の大立者・范鎮。子豊はこの時期、開封か許洲に家を造ったらしい。
所不如者上無両税及助役耳。
如かざるところは、上に両税と助役(じょえき)無きのみ。
「両税」は、夏と秋の収穫税を唐代以来土地保有税として銭納で収取したもの。「助役」は「助役銭」(じょえきせん)のことで、耕作地を持つ人民には年に何十日間か公共事業への労役の義務があるのですが、都市住民にはこれに代えて金銭を納めさせたもの。要するにどちらも「土地」に係る税金である。
お上に両税と助役銭を納めなくていい、というのが敵わないところですなあ。
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これも「東坡題跋」より「書臨皐亭風月」(臨皐亭の風月を書す)。もうダメだ、税金取れるところがある、と知ったら取りに来ますよ。・・・もちろん、チャイナのむかしの宋代のことを言っているのではありません。
国防や少子化対策は将来にツケを回さずに今のみんなで負担しよう、ということは決まった(決められた)みたいですが、負担の仕方は決まらないままに今日も過ぎていきます。もしかしたらおいらは払わなくてもよくなる?