6月16日 見せるべき胆も無いのですが

開口見胆(口を開きて胆を見わす)(「象山語録」)

週末で仕事から解放されたから、東洋の昔のやつの非科学的でどうしようも無さそうなのを読んでみましょう。
「なんの役に立つんだ?」と言わずに読んでみるとオモシロいですよ。余裕のある時は。

クラゲにはあるんだっけ。

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陸象山先生が言った、

凡物必有本末、且如就樹木観之、則其根本必差大。吾之教人、大概使其本常重、不為末所累。

およそ物には必ず本末あり、しばらく樹木に就きてこれを観れば、その根本必ず差(や)や大なるが如きなり。吾の人を教うる、大概その本を常に重んじ、末の累するところと為らざらしむ。

だいたい、物には必ず「根本」と「枝末」がある。そこの樹木についてこれを見てみれば、根本の方は必ず先っぽの方より少し太くなっているであろう。わしがおまえさんたちに教えていることは、大体のことをいえば、根本の方を常に重くして、枝先の方に影響されないようにしてくれ、ということじゃよ。

根本は人間としての生きざまの基礎。枝先の方は名誉や地位やカネとかそんなことじゃ。

然今世論学者却不悦此。

然るに、今の世の学を論ずる者は却ってこれを悦ばず。

ところが、最近の学問について語る人は、逆にそのことをイヤがるんだよなあ。

―――名誉・地位、カネのことに結びつかないことはイヤでしょうね。

後世言道理者、終是粘牙嚼舌。吾之言道、坦然明白、全無粘牙嚼舌処。此所以易知易行。

後世の道理を言う者、ついにこれ粘牙嚼舌なり。吾の道を言うは、坦然明白、全く粘牙嚼舌の処と無し。これ易知易行の所以なり。

近年、道と理について語る学者たちは、とうとう歯はねちゃねちゃし、舌を噛むようなすっきりしない理屈を言うようになってしまった。わしは違いますぞ。わしが道について語るときは、平坦な道を行くように楽で明白で、歯がねちゃねちゃしたり舌を噛んだりすることはありません。これが、知るに容易く、行うに容易いといわれるわけじゃ。

―――最近、ごはんやパンを食べないようにいつもガムを噛んだりアメを舐めたりしているので、ねちゃねちゃし、歯もぐらぐらしてきました。それを批判しているのか、と思いましたが、単なる譬喩のようです。

さて、先生に訊いてみます。

如此談道、恐人将意見来会、不及釈子談禅、使人無所措其意見。

かくの如く道を談ずるも、人まさに意見ありて来会せんとするに、釈子談禅に及ばざれば、人をしてその意見を措くところを無からしめんことを恐る。

「先生は、こんなふうにあまりに容易く道を語っておられる。そうすると、誰かが思うところあって面会に来たとする。(その人もある程度は学問をして、道について悩んでいるはずですが)その人に、オシャカや禅の話を何もしないでおいたら、その人は言いたいことを言う題材も無くなって相談したいことも相談できなくなってしまうということはありませんかね」

先生は言った、

吾雖如此談道、然凡有虚見虚説、皆来這裏使不得。

吾、かくの如く道を談ずるといえども、然るにおよそ虚見虚説有らば、みなこの裏(うち)に来たるを得ざらしめん。

わしは確かにこんなふうに容易く道について語っておりますが、しかし、空虚な見解や空虚な学説をわしのところに持ち込むことはできなくしてありますのじゃ。※

所謂徳行常易以知険、恒簡以知阻也。今之談禅者雖為艱難之説、其実反可寄託其意見。

いわゆる徳行は常に易くして以て険を知り、恒に簡を以て阻を知るなり。今の禅を談ずる者は艱難の説を為さんとすといえども、その実は反ってその意見を寄託すべしとす。

よくいわれる徳のある行動とは、いつも簡易であるがその中に険阻なことがあるのを認識しているものなのです。現代、禅について語ろうとする人は、(それを否定しようとする人であっても)いろいろと難しい話をなさるじゃろうが、実際は、逆に言いたいことをその中で述べようとしているに過ぎません。

それに対して、

吾於百衆人前、開口見胆。

吾は百衆人前において、口を開きて胆を見わさん。

わしは、何百人と来ようとも、そいつらの前で口を巨大に開いて、キモを見せてやりますわい!

―――おそらくこの「胆を見せる」ことが※印の「できなくしてある」ことの説明なんだと思います。

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宋・陸象山「象山語録」上より。むむむむ。さすがは東洋の昔の人、予想以上にどうしようもなかったでしょう。わたしも何を言っているのかよくわかりませんが、東洋の昔の人のどうしようも無いのを何十年も読んでいると、「ああ、またか」という感じで、なんとなくわかったような気持ちも湧いてまいります。

みなさんから「何がわかったのだ、言ってみろ!」と言われたら、

口を開いておまえさんの胆を見せてみなされ! さあ、さあ、さあ!!!

とでかい声で言ってみたりするとわかったような気持ちもまた湧いてくるものです。

「口を開いて胆を見せる」ことは、同じ東洋でも現代の進歩した我々には無理です。どうしてもやるなら、おなかにマジックペンででかい口を書いて、そこを「えい!」と切腹したら見せられるかも。
してはいけませんよ。キモチだけで十分です。

いずれにせよこの人たち(陸学派)の前では、欧米の学校で習ったような理屈を捏ねてはいけないのだ、ということだけはわかっていただけるのでは。そして、あとは「わかったキモチ」になることじゃよ※※。(※※←これはおそらく「追体験」という手法だと思いますよ、知らんけど

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