昔聞長者言(昔、長者の言を聞く)(「陶淵明集」)
むかし聞いた気がしてたのですが、今の若いひとたちと同様聞いてなかったのであろう。

滋賀県地方の亡者だ。若い人の邪魔をする、というならまだしも、生きているやつの邪魔をする、という亡者もいるとは。
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今日はすごい眠いですが、亡者になってから説教しても誰にも聞こえそうになりので、説教だけはしてから寝ます。これ、話を聞きなされ!
とはいえ、
昔聞長者言、掩耳毎不喜。
むかし長者の言を聞くに、耳を掩いてつねに喜ばず。
わしも、むかし、じいさんたちの話を聞かされそうになると、耳を覆っていつも聞くのをいやがった。
懐かしいですね。
奈何五十年、忽已親此事。
奈何(いか)んぞ五十年にして、忽ち已にこの事を親(みずか)らせんとは。
どういうことでしょうか、あれから五十年、あっという間に自分が説教する方に回って若いものからは同じように接されることになろうとは。
今となりましては、
求我盛年歓、一毫無復意。
我が盛年の歓びを求むるも、一毫も復意無し。
若いころ楽しかったことをもう一度・・・と思っても、毛先ほどにもまたやりたいとは思わなくなった。
回転ずし二十五皿とかもうできません。
去去転欲速、此生豈再値。
去り去りて転(うた)た速やかならんと欲し、この生、あに再び値(あ)うあらんや。
はなはだ速く過ぎて行こう、過ぎて行こうとするこの人生、もう一度ある、ということはあり得ないのだ。
そこで、
傾家時作楽、竟此歳月馳。
家を傾け時に楽しみを作して、この歳月の馳するを竟(お)えん。
財産を傾けてできる時に行楽をする。そうして、この走り去っていくような歳月を終わらせることにしよう。
以下、無用のことながら、
有子不留金、何用身後置。
子有るも金を留めず、何ぞ身後の置を用いんや。
「置」は「措置」というときの「置」、「はからい」「布石」みたいな意味です。
わしにも子どもはあるのだが、やつらのためには金は遺さない。どうして死後のための「はからい」なんかすることがあろうか。
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六朝・陶淵明「雑詩」其六。陶淵明先生は子煩悩ですからね。
ダメだ、説教しようとして述懐、というかグチになってしまった。というのも、今日は暑くて夏バテを発症してしまい、説教する元気さえないのです。夏バテしやすいのは、循環器などに問題があるのかも。おまけに眠いしスナック菓子食べまくるし、身後のはからいはおろか、現在のこともはからわず、もうくたくたです。ああ、もうダメだー。