救時拯物(時を救い物を拯(たす)く)(「廿二史箚記」)
子どもの日なんでコドモ肝冷庵が更新担当をやりまーちゅ!

コドモのやることは少しだけ大目に見よう。
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コドモ肝冷庵は子どもで、オトナではないので自分の責任ある意志を持ちません。今日の話題を見つけ出す独立した意志が無いので、岡本全勝さんに取り上げられた五代のひと・馮道さんのことにいたちまーちゅ。経歴とかはめんどくちゃいので、岡本全勝さんのHPを参照ちてね。
御承知のように、五代の乱世(普通には唐の滅亡した907年から宋が建国した960年まで、ですが、実態的にはその前後二十年ぐらいはおんなじような雰囲気(←変換された!)だったと考えていただくといいと思います。)にはその後のチャイナのゴリゴリの道徳主義から言うと許されないような「ワル」が正義の顔をして活躍しました。
張全義媚事朱温、甚至妻妾子女為其所乱、不以為愧。
張全義、朱温に媚事し、甚だしきは妻妾子女のその乱さるるところと為るに至るも、以て愧と為さず。
張全義は、後梁の太祖・朱全忠(温は元の名前)に媚びへつらって仕え、なんと、自分の妻や愛人や娘が朱全忠の淫乱の対象となっても、恥ずかしいこと、とはしなかった。
朱全忠は、本朝の豊臣秀吉さまと同様に自分の一族や臣下の女房や娘に手を出しまくっていたのは有名で、最期はこれにキレた息子の一人にぶっ殺されてしまうわけですが、張全義もそれを当たり前のこととして受け入れていた。
さらに、
及唐滅梁、又賄賂唐荘宗、劉后、伶人、宦官等以保禄位。
唐の梁を滅ぼすに及びて、また唐荘宗、劉后、伶人、宦官等に賄賂して以て禄位を保てり。
そんなにして仕えていた後梁が後唐に滅ぼされる(923年)と、今度は後唐初代の荘宗皇帝、その后の劉氏、お抱えの俳優、宦官たちに賄賂を贈って、なんとか前代と同じ給料と官位を保ったというのである。
なんというハレンチでありましょうか。
この張全義と並び称されるのが、馮道だ。
馮道歴事四姓十君、視喪君亡国、未嘗屑意、方自称長楽老、敍己所得階勲官爵以為栄。
馮道、四姓十君に歴事し、喪君亡国を視るも、いまだ嘗て意を屑(もち)いず、まさに自ら「長楽老」と称し、己の得るところの階・勲・官・爵を以て栄と為せり。
馮道は、四つの王朝の十の君主に仕え、主君が殺されたり国が亡んだりするのを眼前にしながら、まったく意に介さず、自分が得た位階や勲等や官職や爵位を威張っていたのである。
ああ!
二人皆可謂不知人間有羞恥事者矣。然、当時万口同声、皆以二人為名臣、為元老。
二人みな人間(じんかん)に羞恥の事有るを知らざる者と謂いつべきかな。然るに、当時万口同声に、みな二人を以て名臣と為し、元老と為せり。
この二人は、どちらも人間世界に恥ずかしいとか反省すべきとかいうことが有るのを知らない者、というべきであろう・・・と思ったんですが、ところが、同時代の人々は、みんな口をそろえて、この二人を「すばらしい大臣」「トップに立つ老成者」と褒めているのである。
たとえば、(張全義については省略)馮道については、
耶律徳光入汴、責劉継勛絶両国之好、継勛諉之馮道。
耶律徳光の汴に入りて、劉継勛を責めて両国の好みを絶せんとするに、継勛これを馮道に諉(ゆだ)ねんとす。
遼の太宗・耶律徳光が同盟を裏切った晋を攻撃して都・開封を占領したとき、友好関係にあった漢の劉継勛の行動に疑いを持って、同盟を切ろうとした。劉は馮道の謀略だと言い張ったのだが・・・。
遼の太宗は目を剥いて言った、
此老子不是好鬧人、毋相引。
この老子、これ好鬧の人ならず、相引するなかれ。
「そのじいさんは、騒ぎを好んで陰謀を働きたがるような人ではないぞ! その人を巻き込むな!」
と。これは「五代史」の「劉継勛伝」に出てきます。
また、馮道が死んだ歳は七十三歳、
論者至謂与孔子同寿。
論者、孔子と同寿なりと謂うに至る。
当時の評論家は、「孔子の亡くなったのと同い年ですなあ(徳も同じぐらいでしたなあ)」と評するまでに尊重していたのである。
これは「五代史」の「馮道伝」。
此道之望重一世也。
これ、道の望、一世に重んぜらるなり。
これらからみても、馮道の人望は、同時代の全体から尊重されていたことが推し量られるのである。
蓋五代之乱、民命倒懸、而二人独能以救時拯物為念。
けだし、五代の乱、民命倒懸さるるに、二人ひとりよく時を救い物を拯うを以て念と為せばならん。
これは、五代の乱世には、人民の生命などいつも逆さ吊りにされているような危険にあったのだが、この二人だけは、時代を救済し、人物を守護しようということを考えていたからであろう。
例えば、チャイナの人民など全部殺してしまおう、と言い出した遼の太宗・耶律徳光に対して、
此時百姓、仏出救不得、惟皇帝救得。
この時の百姓、仏出づるも救うを得ず、ただ皇帝のみ救い得ん。
「現代の人民たちは、ブッダが出現したとしても救済できません。しかし、帝よ、あなただけは救済することができます」
と言って命令を取り消させたことは、相手におもねりながら人々を救済したとして有名である。(五代史・後唐本紀)
一言而免中国之人夷滅。
一言にして中国の人に夷滅を免れしむ。
たった一言で、チャイナの人民が全滅するのを免れさせたのだ。
その一方で、
至于歴事数姓、有玷臣節、則五代之仕官者皆習見以為固然、無足怪。
数姓に歴事し臣節に玷(か)くに至るは、すなわち五代の仕官者みな習い見て以て固然と為さず、怪しむに足る無し。
いくつもの王朝に次々と仕え、臣下として守るべき節義に欠けた、という点については、五代の時代に仕官した人々はみんな同じように行動していて、(そのような考えを)当然のこととはしていなかったので、別段おかしいことではなかったのだ。
馮道は十君だが、鄭韜光というひとは、退職したとき、
自襁褓迄懸車、凡事十一君、越七十歳、無官謗、無私過、士無賢不肖皆頌之。
襁褓より懸車まで、およそ十一君に事え、七十歳を越ゆるに、官に謗り無く、私に過ち無く、士は賢不肖と無くみなこれを頌せり。
むつきをつけた赤ん坊のころから、出勤に必要な車を立てかけ(使わなくな)るまで、全部で十一人の君主に仕え、七十歳以上になった。それでも、公的生活について誰からも誹謗されず、私的生活についても特段の過ちは無く、賢い人もオロカな人も、みんなその職務を遂行したことを称賛した。
と謳われた(「五代史・鄭韜光伝」)というのですから、十君ではまだまだといえよう。
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清・趙翼「廿二史箚記」巻二十二より。じゃじゃーん! ついに名著「廿二史箚記」が使われました。コドモ肝冷庵が「五代史」のあちこちを綿密に調べてまとめるはずはありません。「資治通鑑」も「新・旧五代史」も何処かに埋もれてしまっておいらのようなコドモの体力では発掘困難なことから、緊急避難的に使わせてもらいまちた。
「なんだと、孫引きとは・・・子どものくせに、わしらオトナみたいなことをしおって!」
わーん、コドモなんでゆるちてくだちゃい!!!!!(なんで「孫引き」というのだろう? 子ども家庭全盛の今日、調べてみる価値はありそうだぞ、くっくっく。)
今日は地震もありました。総理官邸で拳銃自殺事案も。